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備忘録

湯浅政明『日本沈没2020』

Ⅰ.

記憶をかたちにすればどうなるだろう。おおくのひとがおもいうかべるのは、かぎりなく透明にちかい、あわいセピア色の沈殿をうちにとどめた、楕円形のぐんにゃりとしたアメーバ細胞のような形象ではないか。あるいは子どものラクガキのような、パウル・クレーのスケッチのような、やさしく、やわらかい線でえがかれた、夢にも似た手ざわりはだざわりのもの。それゆえに記憶の形象は、ときに細胞分裂めいた生成のイメージから「性」のにおいを発散し、ときに幼児性と関係をむすんで児戯的な、虫を踏みつぶすようにかるく残虐な暴力の噴出をゆるしもする。その暴力性は、彼岸と此岸、人間と異形、ハレとケといった二項に区分された世界の境界をあいまいにとかしていく媒質性とも、ゆるやかにかさなりあう。羊水のなかのような恍惚とノスタルジーのなかで、やがておのれの輪郭もとけだし記憶そのものと混ざりあう。「わたし」は「わたしたち」のなかへ滲みだしすべてがひとつになる。これまで湯浅政明のアニメーションがえがいてきた記憶の形象とは、おそらくそのようなものだった。

 

夜明け告げるルーのうた』以降、震災の記憶と癒着した湯浅アニメーションは、すべてを呑みこんでいくあの津波を念頭に、幻惑的な「水」のエレメントを依代としてえらんだ。それにともない記憶はしぜん「哀悼」の色を帯びはじめる。今年七月にネットフリックスで配信、その「展開の天変地異」と政治性が賛否を呼んだ――というか、おおかた不当な評価をくだされてしまった――、現時点での湯浅の最新作『日本沈没2020』についても、おおまかな状況はかわらない。第一話、日常を一瞬にして地獄へとかえる大地震のおこる直前になりひびく、あのうす気味わるいJアラートの音が不可避に呼びおこさせるのも、やはりあの東日本大震災の記憶だろう。ただしこれまで湯浅作品の署名として認知されてきた、ドラッギーな極彩色や狂ったパースでぐにゃぐにゃうごくサイケデリックなアニメーション、あるいは「水」のような原形質性は、いくぶんなりをひそめている。比較的生硬な印象のつよい小松左京による原作への敬意からだろうか。どうもそれだけではないような気がする。(――以下、ネットフリックス配信版のネタバレ有)

 

旅客機が上空を飛ぶ。そこだけ抜けたように青い空が印象的だ。一話の前半は、平穏そのものをあらわすその余白を全体の基調とし、静謐でのどかな東京の街とひとびとの日常風景が、フィックス・ショット中心の淡々とした編集でかさねられる、おしなべてスタティックで写実的な画面がつづく。そのおりふしで、四者四様ばらばらの場所・状況にいあわせていた主人公一家――陸上の練習にはげんでいた中学生の主人公・歩、自宅でゲームに熱中していたその弟・剛、日本にもどる冒頭の旅客機に乗っていたフィリピン人の母・マリ、オリンピックスタジアムの電工に従事していた父・航一郎――の、人物紹介もかねた情報整理が省略のきいた簡潔な描写でしめされる。やがて異変は起こる。震度4の「余震」を皮切りに、前代未聞の大地震――前述したJアラートの不穏から、直上への高速パン→更衣室の陸上部員たちが「すでに宙に浮いている」暴力的なカットの飛躍が怖気をふるわせる――が、東京の街をおそったのだ。日常が崩壊する。剛は割れた窓ガラスで眼を負傷、父親はゴンドラから降り落とされロープに宙吊り、母親は飛行機からの緊急脱出を余儀なくされ、歩は倒れ落ちてきた更衣室のロッカーにおしつぶされた部員たちを尻目に、恐怖からがら逃げ走ってきてしまう。外はほうぼうで火の手と黒煙がくすぶり、瓦礫同然にまでくだかれた家々が複合レイヤー状の隆起をつくりあげている惨状。いそぎかけつけた歩の家も案の定、かつてのみるかげもなく屋根がひしゃげてつぶれ、ぐしゃぐしゃになっていた。圧しつぶされそうになるほどの悲愴と郷愁のきしみ。そこへ歩のモノローグがかさねられる――「新築の自宅はお父さんが凝りに凝ったこだわりのデザインで、わたしも自慢です。だけど、庭の植木を派手にライトアップしているから、近所で有名になってしまってとても恥ずかしいです」……云々。ところがその言葉は、「いま、その現実に立ちあっている」歩から発せられたものではない。

 

このような、いまみられている風景とは直接には関係のない、文脈をはなれたモノローグが現在場面に「引用」される演出が、作中、おおよそ一話にすくなくとも一回の頻度で反復される。このギミックが、おりにふれて撮影される「集合写真」のモチーフともども、比較的スタティック――ないし「記録」的――だった画面の表面に、うっすらと微温的で、それじたいなにか予感めいた「記憶」の色をぬっていくかのようだ*1。記憶はかつてのやわらかい形象をもたない。アニメーションの変幻もない。かわりに客観を敷き、記録のような生硬さで「撮られた」画面に、かえってアウラのような記憶が薄皮一枚張りついている。だとすればここでの湯浅の判断は、もはや映画性に接近しているのではないか。映画は、カメラ=記録媒体で「記憶を撮る」ものだ。フィックス・ショットと編集主体のしずかな画面組成、平時を横の運動/急場を縦の運動でえがく運動の一貫性*2、そうして情報を逐次かいつまみサスペンスを織りあげる家族四人の群像と、不可避に画面が映画の――とりわけ「物語」への拘泥をみせる古典的なアメリカ映画の――体感を以降も一貫してなぞっているのも、またゆえなきことではないだろう。たがいに安否不明だった一家が、天へのびたライトアップの光をたよりに再結集をはたすみごとな大団円をよそに、以降、物語はそれじたい異様なかるさで踊り狂い、ありうべき結束を完膚なきまでに破砕しながら驀進する――その奥底に「これはいったいだれの、どこからきた記憶なのか?」という問いをたえず放散しながら。

 

Ⅱ.

客観が主観を帯びてしずかに発光している。それが本作のあらわす記憶のすがただとすれば、物語ぜんたいの組成そのものも客観に主観が「まざった」、いびつなものとならざるをえない*3。結論からいえばそれは、アレゴリー的になる。現実の周到な再現をもくろむリアリズムにはんし、「AになぞらえてBをいう」二重性にたえず裏打ちされたアレゴリーのばあい、展開の刻々は蓋然性=「もっともらしさ」ではなく魔術的因果――湯浅的なサイケのにおいもする語彙だ――によりつなぎあわされるから、しばしば細部が奇異な偶然やご都合主義によって「ほころぶ」。すくなくない視聴者から「リアリティがない」と不興を買った一因もここに存するだろう。津波のさなか海へ飛び込み、あまつさえ溺れた子供を救いに戻ることまでする母親の行動は、たとえ「現実的」という意味で「もっともらしく」はなくとも、「元水泳選手で、水泳が得意なこと」「いかなる場合も子供を優先する、自己犠牲的な正義感にみちた人物であること」という役柄の説明としては充分で、エピローグで人知れず希望のエンブレムと化すこの子供の生存が以降、確認されればすべてはこと足りるのだ(だからこそ「そこからどのように生還したか」は、サスペンスをあわせのんだ飛躍的なカットの転換によって周到に伏せられてもいた――そうしてそういった随所の判断が画面のおりふしに映画的ともいえる軽さを刻印しているのだが)。主人公たちのもとに「舞い降り」、やがては日本全土を救うことにもなるユーチューバー「カイト」の天使的存在、および彼の「持っている」=都合のいい偶然が乱打される顛末なども、あくまで「物語じたい」を立ちあげるための諸政策でしかない――この割り切った状況判断がみごとだ。そのため物語は(伝統的なアレゴリー物語がそうであったように)いくぶんかの神秘性をまとうことにもなる。その傍証となるのが、物語の中腹にすえられた、未曾有の危機における生存という本筋とはおよそ無縁にもみえる、ほとんどカルトめいたスピリチュアルコミュニティ「シャンシティ」を一家がおとずれ幾日を過ごすエピソードだろう。

 

伝統的なアレゴリー固執する物語形式があった。主人公の、魔術的因果を介した成長過程をえがく「通過儀礼」がそれだ。仲間を見捨て逃げてきた「後ろめたさそのもの」のように発現し、歩を終始さいなむことになる脚の傷などもアレゴリー的な道具立ての好例だといえるが、いっけん奇異におもえる一連の物語が刺繍するのは、そうした傷からの恢復と成長の過程なのだった。前半の流れを整理しよう――大災害で家をうしなった一家は、いったんは高所(神社の境内)に避難したが、やがて増水によってその場も立ちのきを余儀なくされた。ほかの難民たちとは途中でわかれ、歩もあこがれる陸上部の(いまは引きこもりになってしまった)先輩・春生と、近所に住むお姉さんがわりの七海をふくめた六人でしばらくは行動することになった。水や食糧を道すがら得つつ、順当に西へ西へとすすんでいく一同。ところが不慮の事故によって、一家の中心だった父親がたちまちのうちに「消し飛ぶ」。たてつづけに七海もうしない、かわりに前述したユーチューバー・カイトと、老舗スーパーにひとり篭城する老人・国生と道中、合流する。やがて大規模な地殻変動のあおりをうけ、仮のやどりだったスーパーを手ばなした一同が命からがら逃げたどりついたさきが、くだんのスピリチュアルコミュニティ「シャンシティ」だった……これがだいたい四話までの顛末。

 

シャンシティに入門し最初に影響をこうむるのは春生だ。これまではろくに言葉すら発さなかった春生だったが、到着直後にまかなわれたカレーを食べたとき、ふいに眼前で死んだ母の記憶が去来、やむにやまれず「涙を流す」。この反応が「浄化」として視聴者にも第一に了解される。のちも春生は、日々の労働とレイヴパーティーでのDJなどを介しすこしずつ自己を取り戻し、ついには「走る」ことまでを恢復するにおよぶ。この過程が母娘の関係を「相補」する。父のショッキングな死に直面しても泣くことすらできず、衝突をくりかえしていた歩と母・マリは、コミュニティでのおだやかな日々と、カイトやユーゴ出身の大道芸人・ダニエルといった人物との交流を経、ゆるやかな和解へといたる――その過程で五話ラスト、作中屈指の感動的なロングショットももとめられた。夕暮れをバックに母親が娘の髪(むろんこれも時の流れをあらわす指標)を切ってやり、そこで父の死をようやく現実のそれとして認識、こらえきれず、ふたりそろって涙をながす。未曾有の災害で家をおわれ、大黒柱をもうしなった歩たち一行が、その喪失を受容し乗り越えていくまでの、スピリチュアリズムを介したいわば「セラピー」の過程――そのようにみるならば、ここまでの描写はいずれも過不足ないものだ。

 

さらに物語が後半になると、母親が隠しもっていたハンデ=ペースメーカーの存在と、その「余命」までもがあきらかになり、覚悟をもとめられる一連が、八話――姉弟ふたりで海上を漂流する、作中もっとも静謐で幻想的ともいえるおだやかな時間の流れる挿話によってあらわされる(呼応するように視聴者もまた、物語がすすむにつれ、人物たちのさだめられた死や試練にむけた覚悟性にすこしずつ姿勢をただされてゆく――そのうえで「フリ」による予感の形成と、その脱臼というほとんどコントのような一連もまた他方で形成されるのだが)。非常時にも駄々をこね母親につっかかり、春生に恋慕し、七海には嫉妬までする「ガキ」だった歩も、母親と和解して父の死を受容、その母親のこんどはきたるべき死をむかえいれるべく、ふたりきりになった弟を相手に急ピッチで大人になることを要求される(ひるがえって災禍のなかでの行脚が、ときにピクニックのような温和さをかもしていたのは、父という絶対的な中心の存在が、歩たちが子どもでいつづけることを許容したからだったともわかる)。作品がえがくのは一貫して歩の「成長」、ひいては「通過儀礼」の過渡なのだった。とうぜんシャーマニズムや、大麻と労働を介した自然回帰、ないし身体主義などの「原初性」が焦点になったのもこれと同時的だろう(むろん、カルトすれすれだ――とはいえ讃美や糾弾といった価値判断は周到に留保されている。なぜか――湯浅にとってこの「生死の境が溶ける」スピリチュアルな道具立ては、ほかならないアニメーションそのものの喩でもあったからだろう。そこに作り手のジレンマがある)。大災害によって「物語」が機能不全になった日本で、歩たちの道程は原初の古典的なアレゴリー物語への回帰を余儀なくされたわけだ。

 

Ⅲ.

それにしても、だ――それにしても、おりふしに作品がかいまみせる暴力の野蛮さは、トビー・フーパー的とでもいうのかなんというか、ちょっと常軌を逸してしまっている。だれもが度肝を抜かれるのはやはり二話、父親のあっけなさすぎる死の場面だろう。ついさきほどまで、卓越したサバイバル感覚で一家からの絶対の信頼をよせていた一家の大黒柱が、娘にねだられて食糧となる山芋を掘っているさなか、およそ災害そのものとはズレた位置にあった不発弾という要因によって、こう言ってよければ――「あまりにもしょうもない」死にかたで絶命する*4。ダメ押しのように黒煙が地下から吹きあがり、花火のような喧騒に砂礫が舞い血糊は飛び手首がころげ落ち、ただぼうぜんとする家族一同の真上から、異様な高揚感をともないつつ降りそそぐ*5。物語の最初で最大ともいえる悲劇が、それとは真逆の嘲笑性、あるいは興奮でいろどられている。過激なまでの死の「軽薄さ」そのものが「かなしい」(牛尾憲輔のスコアのすばらしさも、むろん特筆にあたいする)。次の挿話でまたしても無慈悲に、ちょうど用を足しにいく途中という、ほとんどコメディすれすれの因果で即物的に死ぬ七海についても同様だ。

 

笑いになだれこむ寸前の、異様なズレと「混ざり」の感覚が、ありうべき共感から視聴者を切りはなし孤立させる、そのありようがすでに暴力的だ。これが「語り」そのものに転写されると、ほとんどシチュエーション・コメディのようなテンポ感だけをのこし、物語そのものが地殻変動よろしく「ズレ」、「たわみ」、「うねる」驚愕を形成するようにもなる。ここも賛否をまきおこした要因のひとつだろう。七話――崩壊したシャンシティをあとにした一家は、フェリーをつかい海外へ脱出する国策を聞きつけ、港へむかう。陸上の選手特権で歩だけが渡航をゆるされたが、ここで歩は母のかかえていたハンデにようやく気づき、家族のいる場所こそがじぶんの居場所だから――これが歩のゆいいつもちあわせた「思想」だ――といって乗船を拒絶する。この「のるか、そるか」のやり取りが、この挿話では以降もたたみかけられる。極右団体には混血を理由に乗船を拒否された。ほどなく伝統的保守ともいえる海の男にひろわれるが、爆発炎上した極右団体のメガフロートからあおりをうけ、船はたちまち難波した。救命ボートによる離脱をこころみるが、身勝手な船員のひとりがとつぜん発砲――「拳銃」がでてくる時点ですでに状況はズレをはらみ、もはや誤作動的だ――、どうにか海へでるも一同はちりぢりになってしまう。各シチュエーションの時間配分は末尾へちかづくにつれ徐々に縮減、刻々は一気呵成のカット転換で飛躍をもち、結果、あれよあれよというまに状況は変転していく。呼吸はもはやかぎりなくコメディのそれだ。それが最終的に、「ボートに揺られ、気がついたら眼前にはビルの屋上、事後的に日本の沈没を知る」――という、黒沢清『カリスマ』ラストのような黙示録的飛躍を呼びこむことにもなる。

 

鎮魂の予感にみちたしずかな雰囲気と無時間のメランコリーをうつくしく刺繍しつつも、サメ、幽霊船、光かがやく海に父親の幻影と、ファンタスマゴリアめいた夢幻が彼岸からいくつもあらわれては消える八話についても、事態はかわらない。さらには母親のしずかな、尊厳ある死をえがいた直後に、九話――母親と同様の心臓マッサージと人工呼吸のさなか、「うっかり生き延びてしまった」とでもいうかのように息を吹きかえす潜水士・小野寺のくだり(「酸素ボンベに穴が開いていた」というそもそもの因果がコントのようだ)。あるいは直後、まるで死ねなかった小野寺のかわりのように、ランナーズ・ハイのさなか波にさらわれる春生の最期。とうぜんズレの重畳はお笑いの常套でもあったが、死に隣接する海の風景――そういえばこのあたりは、作中かすかに「水」の主題がほのかおる挿話でもあった――が、北野武作品の記憶を呼びこんでしまったのか。いずれにせよただ波のように押しよせては引いていく個々のできごとは、視聴者のうちに定着されるはずの共感や感傷ごとうばいさって、ひたすらに流れていくだけだ。春生をさらっていった波のように、あるいは、音楽に発語を乗せグルーヴを獲得していく、あのサイファーのように。物語の屋台骨がむきだしの、「すすむためだけにすすむ」かのような構造性にひたすら慄然とする(「物語とはじつは廃墟でしかない」ことをあばきだしているのだろうか*6)。けっきょく視聴者のもとには、瞬間瞬間をのみこんでいく「だけの」、興奮にみちたかろやかな時間の体感だけがのこる――この暴力的な「語り」がもたらす畏怖こそを真に汲むべきだろう。

 

Ⅳ.

刻々ズレを惹起しながら狂奔する、それじたい湯浅アニメーション的ともいえる――媒質から内奥への、ここでも「ズレ」があるが――ゆがんだ物語の形象は、とうぜん「国家の崩壊」=「家族の崩壊」という二重の脱中心性にも依拠している。最初に父親が「象徴的に」死ぬ。以降は各局面で、いちどは定着したとみえた寓居や拠り所となる人物=「中心」をほどなく喪失しゆく一連をいくども反復し、家族は物語ともども漂泊を余儀なくされる(そうかんがえると前述した小野寺のいっけん誤作動的ともいえる蘇生と直後の春生の死は、不具ゆえに父性=中心性を剥奪されている小野寺に比し、自己役割をとりもどした春生が結果的に「中心化」した事実の、事後的な裏付けでもあったのかもしれない)。中心の不在という、きわめて日本的な事態。天皇制に依拠する日本の脱中心性をかつて喝破したのはバルトだったが、原作者の小松左京が、その作家生涯をつうじ天皇制の描出に終始腐心していたこともまた周知なはずだ*7。原作からは潜水士・小野寺を「寝たきりの身体(=アーカイブ)」として招聘し、例の不発弾ともども国土という「国家の身体」に埋没した記憶=物語を掘り起こすよううながす物語の顛末も、このことと同時的だろう。くわえて作品ぜんたいが物語を隆起させるために、アメリカ(映画)という中心を呼びこんでしまったこともまた示唆的だ。冒頭、旅客機不時着に想起される『ハドソン川の奇跡』の記憶といい(あるいはシャンシティにおける「死者との対話」の『ヒアアフター』性といい?)、みるだに『グラン・トリノ』の頃のイーストウッドを模しているとしかおもえない老人・国夫のキャラクターといい、かれを媒介に繰り広げられるめくるめく活劇場面のすばらしさ(六話――絵コンテ・演出、本間晃*8 )といい、保守のアイコンにしてもはや「アメリカ(映画)そのもの」ともいえるクリント・イーストウッド作品の記憶が本作にひしめいているのも、おそらく偶然ではない。

 

だからこそ左派が本作の終局にしめされる、東京オリンピックエクスプロイテーション的側面をみて、即座に糾弾にはしった気持ちもわからなくはない。なるほど一話をなぞるように訥々とした編集で乱打される「かつて、あった」日本の風景のかずかずと、終幕に「書き添えられる」歩のモノローグには、あからさまに愛国的なにおいがこびりついているようにもおもえる――ただしロトスコープの多用によってキャラクターの表情をはじめとする個々の表象は「理想化」をまぬかれ、かろうじて安易な感傷への堕落はおさえられているが*9。ところで、最終話の「時間差で彼岸から届くメール」「クラウドから噴出する記憶たち」というギミックは、あくまで技術的・即物的なもの――すなわち「客観性」にやはり終始している(そういえば、クリスマスの夜に死者からのメッセージがライトアップのかたちでとどく『きみと、波にのれたら』の終盤も、これと同様の構造をもっていた)。記録性に癒着する本作特有の記憶性についてはすでにのべたとおり。そこへ冒頭紹介した歩のそれと同様の、すでにここにはいないひとたちのモノローグがつぎつぎかさねられていく。とうぜんこれは道中、さまざまな場面・人物・モノにあてがわれていたのとまったくおなじものだ*10アーカイブ保存されていた映像をかいし、ようやくそれらモノローグの出自が――というより、「それらに出自があったこと」「かつ、それらは作品ぜんたいに「配剤」されていたこと」が――あきらかになる。ひるがえって、作品ぜんたいが周到にはりめぐらしていた人物描写の断片性と、その個々の相補性・照応性がこうした「配剤」によって綿密に織られたものだったことを想起すれば、ショットの「断片性」を基本単位とする映画性ともども、断片への裁断とその再布置が、作品(の、とりわけ記憶装置としての側面)をうごかす諸力だったことにもおもいあたるはずだ*11

 

この配剤性によって本作は、崩壊の一途をたどる廃墟然とした国家=物語のうえで、アニメーションと映画を、原初性と現在性を、そうして記憶と記録をスリリングに「接いだ」。作中、「金接ぎ」という印象的なモチーフもあらわれていたが、「接ぐこと」の主題は、母のペースメーカーから剛のピアス/歩の義足へと継承されゆくサイボーグ的な「継ぎ接ぎ」の身体+機械に、ひいては多国籍+障碍の多重マイノリティ性にも、幾重にかかって発現していた。のみならず当の物語そのものが、ジャンル不定性や寓話の不全性(不全の寓話性)でもつれた「継ぎ接ぎ」の構築物でもあったはず。従来、湯浅の署名だったやわらかなアニメーション性は、生硬な映画性ないし物語と癒着することで、記憶や生死のあわいをとかす原形質性それじたいを「語り」、アニメーションそのもののようにうねり狂う「アニメーションの物語」をつむぎはじめた。その観点から湯浅は、二重の意味で「アニメーションのアレゴリー作家」だともいえる。そうしてこの物語もまたアニメーションのアレゴリーだったとするなら、もうひとつのありうべき「意味」をおもいおこすべきだ。「クラウド保存されていたデータにより復旧が叶った」エピソードで喫緊のものといえば、昨年の京都アニメーション放火事件の後日談がそれだった。本作が真に隣接しているのは(あるいは、隣接すべきなのは)、ほんとうは震災でもオリンピックでもなく、むしろそちらのほうだったのではないか――そう、第一話、牛尾憲輔のどこか鎮魂めいたひびきすらもった劇伴の鳴るなかを、ときに印象ぶかい「脚」などのクロースアップも差しはさみながら日常風景を点綴、やがて圧倒的な災禍がすべてを呑みこんでいく一連の場面で不可避に呼び寄せられた記憶は、ほかならないあの京都アニメーション(事件)のものでもあった*12

*1:やはり不可避にベンヤミンをおもってしまう――《過去がその光を現在に投射するのでも、また現在が過去にその光を投げかけるのでもない。そうではなく形象のなかでこそ、かつてあったものはこの今と閃光のごとく一瞬に出会い、ひとつの状況を作り上げるのである。言い替えれば、形象は静止状態の弁証法である。なぜならば、現在が過去に対して持つ関係は、純粋に時間的・連続的なものであるが、かつてあったものがこの今に対して持つ関係は弁証法的だからである》(『パサージュ論 第3巻』P.184)。

*2:「下に降りる」運動をおこなった人間は例外なく死に(地面を掘りすすんで不発弾を引きあてた父親、用を足すために下方に降りて毒ガスを吸引、即死する七海。あるいは教団の最頂上で神意をつかさどっていた夫婦が、死の受容とともに建物もろとも崩落していく一連)、逆に「上に昇る」運動は魂の上昇――剛がモールス信号で天上にメッセージを送りつづけるそこは、とうぜん彼岸をしめす――ひいては「崇高」としてあらわされる(神殿の直上から一家を見送る国夫や、水面へむけて浮上しゆく母親の最期、気球に乗って命運をつなぐカイト。そうして水位上昇から領土の隆起に至り、歩の「飛翔」をつうじて復興が視覚化されるクライマックス)。とうぜんこれらの視覚的明瞭性は、ぜったいに運動の快楽を捨象しない「映画作家」湯浅の卓越した判断だと単純に言いきることもできるだろう(この点では湯浅はやはり「保守的」だ)。湯浅作品がアニメーションの昂揚を過不足なく発散すると同時にどこまでも「映画」然とした魅力をたたえているのは、たとえばこうした運動の一貫性による。

*3:いったんは一家を車で拾うも、七海に関係をせまったことで放逐された退廃主義的な男の目線からえがかれる奇異な格闘シーンや、かれからうばったメガネを七海がつけかえてやったときの「眼鏡越し」に鮮明になる春生の視界、あるいは国生のいとなむスーパーの棚を物色する一行の一人称視点などといった「主観ショット」が演出の要となり、かつ、七海と春生のあいだになにかを嗅ぎ取り、それとない不快をあらわにする――そうして、そのために七海を死にいたらしめることにもなった――歩の「認識の相違」を、言葉数はすくなくとも三すくみの構図でしめした比較的「湯浅色」がつよいようにもおもえた三話などをみれば、「主観性」の発露(と、その罪障)についてもうなずけるだろう。

*4:二話はあたかも彼岸から声をかけているかのような、父親のすがたばかりはみえないままに、その声だけがとおく聞こえてくるカット――最初は川下りをする際、崖の下から弟・剛にむけてはやく飛びこむようにと声がかけられる場面、もうひとつは暴れ狂うイノシシを捕まえたあと、身をあんじて息を呑む一家をよそに、画面向こうから「獲ったどー!」と快哉を叫び、その生存をつたえる場面――が道中、二度反復され、そのことによって「死の予感」をうっすらたたえてもいた(とはいえ、そこからみちびかれた死は、物語のあるべき道からいちじるしく逸脱してしまっている……)。

*5:まさしく花火のシーンだったが、『きみと、波にのれたら』の序盤、主人公・ひな子と港の「出逢い」をえがいたシーンも、これと同様の(ほとんど哄笑的ともいえる)カオティックな昂揚感をたたえていたことも想起される。自宅マンションで火災が起こり、どうしようもなく上階へ逃げたひな子が、救助のためにクレーンで登ってきた消防士の港と対面する瞬間、立てつづけに花火が上がって、ドラマティックな瞬間がにわかに演出される。とはいえそこは火災現場なわけで、その「出逢い」はなにとなれば不謹慎でもある――ところが観客は、恋愛感情の昂揚に見立てられた上昇運動の重畳と、危機的なはずの状況とかさねあわせられた(筋違いの)情動にみごと「乗せられて」、すっかり恍惚してしまう。だからここで得られるいわくいいがたい感覚は、そのまま「映画的な昂奮」と形容するべきなのかもしれない。

*6:とうぜん「廃墟」もベンヤミン語だ。《事物の世界において廃墟であるもの、それが、思考[想念]の世界におけるアレゴリーにほかならない。バロックが廃墟に傾倒するのはそのためである》(『ドイツ悲劇の根源 下』P.51)《瓦礫のなかに毀れて散らばっているものは、きわめて意味のある破片、断片である。それはバロックにおける創作の、最も高貴な素材である。というのも、目標を正確に思い描かぬままにひたすら断片を積み上げていくこと、および、奇跡をたえず待望しつつ繰り返しを高まりと見なすことは、さまざまなバロック文学作品に共通する点だからである》(同、P.52)。

*7:小松左京天皇表象については、野阿梓「ジャパネスクSF試論」(巽孝之編『日本SF論争史』所収)が簡潔でわかりやすい――参照のこと。

*8:荒いコマ送りのような作画でつむがれるアクションの連続、それぞれの人物の――思想や立場をもはや問わない――「ナマの」生きざま、直線路でのかわいた一瞬の銃撃戦、アルドリッチ特攻大作戦』の終盤すら想起させるカタストロフに脱出劇と、どこを切っても活劇の味がする本作のベストエピソードだった(最良の『映画クレしん』の記憶もいくつかよぎった)。とりわけあの「グッドラック」の瞬間に結実する、ひたすらアメリカ映画的としかいいようのない催涙性たるや。同時に老人が発する「こっち側には来るな」という一語、あるいはラストカット――「車線をまたぎこえるカメラ」といい、例のごとく彼岸と此岸の境界をはさんだ差し引きが周到に張りめぐらされている点も注目にあたいする。

*9:じっさいには額面どおりの内容だけでなく、視聴者を共感一色でそめあげる、いわば「感情のファシズム」が各場面でどのように回避されているかが真に吟味されるべきだろう。たとえばネットフリックスで製作された前作『DEVILMAN crybaby』の弱点もおそらくここにあった。九話、悪魔にまつわる風聞におどらされる大衆を露悪的にえがき、かれらと相対するヒロイン・美樹の絶対的で聖母のような善性を強調するあまり、直前まで作品が基軸としていた哄笑的な暴力性が感傷主体の象徴性に呑まれてしまう瞬間があった(呼応するように、美樹がネット上で「論説」する場面には、絶望的なまでの停滞が画面に刻まれてしまってもいた)。ほかの仕事でも一貫して衆愚描写への拘泥をみせている大河内一楼自身の問題意識がまねいたものだったのだろうが――その点、本作の脚本・吉高寿男のバランス感覚(およびそれをみごと掌握、距離化してみせた各話レイアウトや演出の妙)は相応に評価されるべきだともおもう。

*10:とりわけ八話、母親の――すでに「モノ」と化した――屍体のうえに生前のモノローグがかさねられる場面のベンヤミン性はどうだったろう。《死によって精神が霊として自由になると、身体もまたいまはじめて、己れの権利を最大限に達成することになる。というのも、自明のことながら、肉体のアレゴリー化は屍体というありようにおいてのみ、徹底的に断行されうるからである。そして、バロック悲劇の登場人物が死ぬのも、ひとえにそのようにして、つまり屍体となって、アレゴリー的な故郷に入るためなのだ。不滅のものとなるためにではなく、屍体となるために、彼らは滅びる》(『ドイツ悲劇の根源 下』P.139)。あたかも作品後半の展開をそっくりなぞるかのような文章でもある。

*11:その意味では本場面は、たんに混乱した現代日本アレゴリーというより、むしろ作品ぜんたいのアレゴリーととられるべきかもしれない(ちなみに、伏線やマクガフィンの配剤を度外視した野蛮で「燃料投下」めいた情報の大洪水によって観客を殴打、破壊的な感動を呼びこむラストシークエンスの手法については、初監督作『マインド・ゲーム』以来、『夜明け告げるルーのうた』などでもみられた湯浅の常套手段でもあった)。そうして、作品の刺繍してきたアレゴリーはここにいたって、諸断片のモザイク/コラージュ的な配剤・布置により、事物へ理念としての意味の再付与をおこなうベンヤミンアレゴリーへの「跳躍」をはかっているようにもみえる――この点については、すでに随所に示唆したとおりだ。

*12:追記――11月13日に劇場公開された『日本沈没2020 劇場編集版 ‐シズマヌキボウ‐』では、ここで触れたような物語のめくるめく天変地異や随所に噴出するホラー的な予兆に充ちた細部、上昇と下降の一貫した運動性、アメリカ映画的な熱狂、人物の周到な配剤性、思想性や感傷からの倫理的な距離化、そうして破壊の風景にかさねあわされた牛尾憲輔の劇伴によって彩られていた記憶とコラージュの主題などがごっそり抜け落ち、たんに情報を提示するにとどまる平坦なカットの集積にとどまってしまっていた。これだから総集編は難しい――劇場版を観て困惑してしまった方も、ぜひ(劇場公開版以上に)映画的な魅力に富んだ配信版のほうに当たっていただければとおもう。