watakushitoshi

わたくしとし/備忘録

ポン・ジュノ『パラサイト 半地下の家族』

(noteに投稿したものと同内容です)

 

映画は本能的に寓意のもつ危険性を知悉しているものだ。安易な象徴化は目にみえない「読みとられるべき意味」のほうを中心化し、ほんらい可視的な運動や差異のもっていた快を二次的な周縁へとおしやってしまう。ヒエラルキー的なのだといってもいい。だからおおくのすぐれた映画作家は映像=可視的なものを安直な意味化のながれからすくうことに躍起になり、あるいは可視的なものによる意味の「転覆」のほうへ熱をあげることになる。他方、程度の差こそあれ、かたちあるものはみないやおうなく、みずからになにかしらの意味を「住まわせてしまう」という「宿命」についてもまた言をまたない。すべての形象に意味がある、あるいは、形象は不可避に意味をもってしまう――そうした「宿命」が、ときにはフィクションを駆逐し、またときにはフィクションと結託しさえもする。

 

山水景石という「象徴物」を、冒頭からいかにも「象徴らしく」もちいてみせた、最新作『パラサイト 半地下の家族』のポン・ジュノ監督もまた、それらの世界法則すべてに自覚的な作家のひとりだろう。せまくるしい「半地下」の家に暮らす目下ぜんいん失業中のまずしい四人家族が、ひょんなことから縁をもったブルジョワ家族のもとでつぎつぎ職を得ていき、一家もろともその豪邸へ寄生=「パラサイト」する奇策にでる――という、この奇異な物語のあらましだけでもすでに「上下格差」という目にみえる寓意はまずあきらかだ。じっさい作中の「構図」へのこだわりはとにかく徹底している。「半地下」の家と「寄生先」の邸宅の空間的対比。記号的ともいえる人物たちもまた、じしんの社会的・役割的な「立ち位置」をめぐり、とりわけ「上下」の位相をめぐって階段をのぼる/降りる、みあげる/みおろすといった構図的アクションを終始反復する。随所に精妙にちりばめられた偏執的なまでに構図的/図像的なそれら記号を「読む」おもしろさもむろんだが、問題はそのいっけん明瞭すぎるともみえた寓意がしだいに「化け」、やがては真空地帯へずれこんでいく怒涛の物語展開にある。たとえばいま例にあげた山水景石がじっさいには「象徴の象徴」だったように、空間とその位相差をめぐる物語が最後に顕現するのはたんなる象徴ではなく、寓意をひたすらすいこんでいく「空虚」のあらわれなのだった。なにぶんその数奇な物語にこそ本作のおもしろさは集約される。未見のたのしみをうばわないよう、以下は話の核となるおおきなネタバレにはあまりふれないよう、要所要所をかいつまみつつ作品への言及をこころみたい。

 

「半地下」というのだからそこは地上でも地下でもなく、あくまでその「あいだ」だ。ファーストショットはその「半地下」の家の窓からのながめだった。フレームインフレーム。往来する車や道ゆくひとびとが――ちょうど加藤泰が多用した超ローアングルのような――地面のさらに下をほってカメラをすえたような視界として窓の外にひろがる、そういう場所にキム一家は暮らしている。失業中の父ギテク(ソン・ガンホ)、その妻チュンスク(チャン・ヘジン)、大学受験に失敗しつづける長男ギウ(チェ・ウシク)、美大をめざす次女ギジョン(パク・ソダム)――この四人がまずは冒頭、せまい家のなかをぎゅうぎゅうに埋めつくす。とうぜん問題は「空間」のそれになる。wi-fiのアンテナが立つ場所をさがして(しかもこれは他人の家のwi-fiなのだが)ギウが身をかがめつつ室内を行ったりきたりする一連で観客にも家の空間配置を即座にわからせる冒頭。こうしたこまかい演出からも「空間」への配慮はすでに明白だろう。では「半地下」の空間的特質はどこにあるか。天井はひくく通路もひどくせまいため、身体はしぜんちぢこまる、そうした実害もあるが、問題はなにより「半地下」の「半」、すなわち「あいだ」の位相にこそあった。家中からは路上でのけんかや社会的な落伍者の痴態もまるみえだ。いまからだれが家をたずねてくるかも即座にわかる。こんなディティールもあった。窓からみえたのは殺虫剤とおぼしきガスを四方八方に撒布しながらこちらへむかってくる男。ちょうど家中の「便所コオロギ」の殲滅になるから窓はしめるなと父ギテクは言う。まっしろいガスが窓から家のなかにながれこみむせかえる一家。画面は煙ですっかり不鮮明になった――この一連でわかるのは、家が地面にいわば「接して」いる状態にあること、つまり内にいながら外に、世界に「半分ひらかれて」いるという「半地下」の実質だった。だからこそ一家は近隣の事情にもよく精通しているし(バイト先のピザ屋からなかばおどすかたちでしっかり金をもぎとる場面)、現在失業中とはいえ、のちにわかるように家族みな職を得たのちはそれなりにふるまえるほどには相応の能力をそなえてはいる。ぜんいんがぜんいん「中途半端」で、目下「宙吊り」状態なのだ。「半地下」の家はその意味ですでに空間を埋める構成員たちと運命をともにしている。「空間が居住者に似ている」のだった。

 

そんなかれらの「寄生先」の邸宅は一転――おおくの富豪の家がそうであるように――どこもがらりとしてひろく空白がおおい。有名デザイナーにより設計されたという豪邸は二階建てで、序盤から中盤にかけて構築される「喜劇」のおもな舞台となる一階は――これが作中もっとも多用される構図になるが――むかってカメラ手前側には横にひろいリビングがあり、その右奥にダイニングがみえ、左側には二階へのぼる階段がある(リビング側からだと階段にかくれてみえない――だから死角がサスペンスを誘発する――が、ダイニングの左奥側には冷蔵庫や地下貯蔵室につながる階段通路がある)、そういった配置。リビング側から全体をとらえたこの「三すくみ」の構図がのちのち爆発するサスペンスの導線でもあった。だだっぴろい「庭」も印象的で、壁いちめんガラス張りの窓がフレームインフレームを構成しているリビングからその全貌がそっくりみわたせた。とうぜんそれらがかたどるのは「美」だが、構図的にはどこか「間抜け」でもある。ここでも空間が住まう人物に「似ている」のだった――家の主はIT企業社長のパク氏。そうしてこちらの一家も、あまりに純朴=「シンプル」な妻ヨンギョ、高校生の長女ダヘ、おさない次男ダソンの四人構成で、くわえてまえの持ち主の代からつとめる練達の家政婦も席を占める。むろん五人ではひろすぎる空間だ。

 

構図的に「間の抜けた」空白は、いずれは埋められなければならない――これこそが映画のもつ至上命題だろう。その論理じたいが時限装置として作動する。最初のきっかけはギウの友人ミニョク(パク・ソジュンのカメオ出演)からの打診。長女ダヘの家庭教師をしていた秀才のミニョクは、じぶんが留学で仕事をあけるあいだ、代打を信頼のおける親友ギウにたのみたいのだという。ギウの武器はひとつ、長年の浪人生活でつちかわれたことばの力だけ。ようは「ハッタリ」だ。美術センスは一流の妹ギジョンに大学の学生証(卒業証明書だったもしれない)を偽装してもらい語学エリートに扮装するギウ。ダヘとその母ヨンギョの信頼をみごとかちとった。すっかりダウに気をゆるしたヨンギョは次男ダソンにつける美術教師をさがしている旨をそっともらす。それを聞いてひとり「当て」があるというギウ。むろん妹のギジョンだ。やはり超エリートになりすました。経歴はぜんぶ口からでまかせ。それでもすべてはうまくはこび(あるいは「はこびすぎ」)、晴れてギジョンも美術教師という居場所を得た。ここまでくればあとの展開も容易に想像がつく――父母もそろって一家ぜんいんでの「寄生」だ。あまりにも突飛なアイデアに「共犯」の観客もおもわずニヤついてしまうはず。「間抜け」な家の「間抜け」な家族を、下層民の一家がずぶとくもどんどん巣食っていく――徹底的に構図化されたベルクソン的ともいえる哄笑にみちた序盤はただ生起する「喜劇」に身をまかせるのみだ。

 

以降、父母が順に「寄生」していくプロセスもきわめてスマートで、もはや「できすぎ」の域だった。画面も小気味いいカッティングとスローを多用したほとんどMV的ななめらかさを獲得していく。人物が情動をともなわない反面、喜劇としてすなおに「笑える」一連がつづく。以降は「空席をつくること」からはじめなければならなかった。まずは父ギテク。パク氏の専属ドライバーに焦点をしぼったギジョンは、初日の帰りを車で送りとどけてもらうさなか、ひとつ豪快なハニートラップをしかける。これを機にいともあっけなくドライバーは解雇され――とにかくパク一家は愚鈍なのだ――、そのあいた枠にギテクがまんまとすべりこむ。最後は難関ともみえた家政婦。しかしこれも致命的な弱点をひとつみつけ、家族みんなでうまくたばかって――めざましいチームワークが詰め将棋めいた編集であらわされる――みごと母親の席も獲得できた。順風満帆――ここまではパズルのピースがきれいに埋まりすぎて、かえってなにか異様にすらみえる。すでに家の空間そのものが、つまりは空虚そのものが意味を「住まわせ」ようと蠢動しているのだろうか。とうぜん観客はきたるべき破滅を予感するだろう。中盤でパク氏一家が団欒、キャンプにでかけると、もぬけのからになった邸宅内でキム一家は案の定豪遊をはじめる。父母はリビングの広大なソファで豪快に昼寝、ギウはけっきょく恋仲となったダヘ――「大学進学後は本格的につきあう」と、前任だった友人ミニョクの言をそっくり模倣してしまう、構図化された「入れ替わり」がやはりここでも徹底している――の日記を読みあさり、ギニョンは二階の風呂を占領、夜になるとぜんいんで酒盛りをする。本質的とみえる会話もあった。パク氏一家が純朴で「やさしい」のは経済的な「余裕」があるからで、じぶんたちにはたんにそれがないだけなのだと。ここでも「空間」が経済格差の寓意を「のんで」しまっている。埋めきれないリビングの余白をこぢんまりと、それでも贅をつくしてどうにか埋めようとするキム一家。これが真に寓話だったなら、ほとんどうまくいきすぎな好況に調子づいた一家は、対価としていかにも教訓めいた「報復」をこうむっていたところだろう。じっさいこの場面からかれらは、おおくの観客の予想どおり手ひどいカウンターを受けることになるのだが、ただしそれはあまりにも斜め上からの――あるいは「斜め下」からの――かなり意外なものだった。ここからストーリーテラーとしてのポン・ジュノの才気がひかる。

 

このドンチャンさわぎの晩、あるひとりの来訪者が家族のもとにあった。不気味な笑いと意外な身体速度が印象的だったこの人物についてはここでは名前をふせておこう。そこからは急展開。ネタバレをさけて抽象的にしるすなら、おこるのは以下のようなことだ――上下関係が確固で安定していた構図のうちに、いわば「脱世界」的なべつの空虚の「とびらがひらかれる」。確認しよう。「半地下」の家の特色は世界に「半分ひらかれた」、いわば「半世界」(阪本順治の同名作を連想させるまぎらわしい造語で恐縮だが)の位相にあった。他方、おだやかでがらんとしたパク家の邸宅はそれだけで自己完結的な世界性を享受しているといえる。ここにくわえてある闖入者が登場することで、世界からより苛酷に隔絶された、いわば「世界の無意識」ともいえる「脱世界」的な空間がだしぬけに導入されるのだった。この不意打ちによってキム一家は、これまでの「下層民が上層民を巣食う」安定的だった構図をいきなり剥奪され、いまいちど「半世界」の不穏な「宙吊り」の世界に「ずりあげられる」。直後に起こるのが一転して緊迫感に満ちたより精度のたかい「サスペンス」なのがその傍証でもあった。意想外の闖入者によりとつぜん窮地に立たされたキム一家は応戦にでる。そこへさらに(これは「お約束」だが)豪雨で急遽帰宅を余儀なくされたパク一家までも合流し、阿鼻叫喚の人物たちで余白が埋められ画面はにわかに活気づいていく。この窮地によって映画の空間は「アクション」の恩恵にくみするのだ。アイデアが印象的だったアクションを箇条書き的にあらわしておこう。①携帯を拳銃のようにつかったせまい通路でのアクションシークエンス(念頭にあったのは黒沢清クリーピー』終盤の、ほそくくらい一本道の通路上での西島秀俊香川照之の拳銃を介した対峙場面ではないか)②ラグビーの試合を彷彿とさせる――スポーツならばすでにポン・ジュノは『グエムル』のペ・ドゥナ=アーチェリーという前例もあったが――スロー処理された携帯の乱闘争奪戦③パク一家帰宅によって発生するかくれんぼ的なサスペンスシークエンス④アクション主体のすさまじい身体反応――とりわけ母チュンスク=チャン・ヘジンによる「後ろ蹴り」と、それによる被害者の即物的な「階段落ち」。いずれについてもどこかで「見立て」に接していることも注目にあたいする。やはり形象は不可避に意味をもってしまうのだ。この場のある人物によって発せられるきわどい「北朝鮮ギャグ」についても同様――これによって「格差社会」を模していた家屋空間は「国家危機」という寓意/見立てをもあっさりのみこむ。空虚は意味をたえず「住まわせ」、肥大化するどころかなおいっそう空虚の度合をつよめてしまうのだ。空虚といえば、この局面で重要になる地下貯蔵室へつづく通路が、外からでは階段の存在がみえないほどに「ぽっかり矩形にあいた穴」のようにうつされていた点(こちらは黒沢清『回路』『ニンゲン合格』の「壁のシミ化した人間」を参照したのだろうか)、あるいはリビングの机の下に父・妹・兄が横ならんで寝ころびかくれるサスペンスシークエンスの最終局面で、その矩形の机を天井側から見下ろすポジションになると、そのままそこがまっくろい四角い穴のようにうつる点をおもいおこしてもいいが、ここにきて画面に「不可視の(/不可視にしかみえない)空虚」が文字どおり「穴」としてあらわれる画面の異常事態もまた重要だった。じょじょに不可視のものが可視的に画面をみたしはじめるのだ。それはたとえば「情動」についても同様だった。だからこそ映画は終盤にいくにつれ、やはり韓国映画らしい(それでいて真逆のような虚無感すら同席した)エモーションの爆発へと収斂していくのだったが、そうなるとやはり中心軸はキム家の父ギテクを演じる「韓国の顔」とでもいうべき俳優、ソン・ガンホの存在になる。

 

父・妹・兄がそろって机の下という「半地下」にかくれたのは、パク夫妻と息子ダソンがとつぜん起きて一階に降りてきたからだった。ダソンは雨が降る庭に単身とびだしていきその中央にテントをかまえはじめ、それをみまもるために両親が今夜はリビングのソファで横ならんで寝ることになった。その直下のテーブル下にキム父・妹・兄の三人がぎちぎちになってかくれている。最接近の瞬間だった。緊迫感が持続する。どうにかすきをみてのがれたいがパク一家はなかなかねむりにつかない。やがてギテク当人が真下にいるのもしらず、夫妻はかれの「匂い」についての悪態をつきはじめた。たとえ別人に扮装していても、家族は「匂い」でそれとバレてしまう、というディティールがこの前段にもあったのだった。「生まれ」は「匂い」と結託しているのだ。むろん「匂い」とは「不可視」で、これもまた映画においては空虚なブラックボックス、それでいて空間内にたしかに「みちる」ものとしてある。机の下で夫妻の悪態にたえるギテク=ソン・ガンホの、これまでは比較的ほがらかな局面のおおかった顔がここでにわかに硬直し表情をうしなう。ついには頭上で発情しまぐわいあいはじめた夫妻(ここでは「性の匂い」が充満していたはず)。なおもギテクの表情はかわらず、虚無的で石のようにかたまったままだ。ここからガンホの表情は――とりわけパク氏との面とむかった会話場面において――「匂い」に関連してこの硬直を一貫するようになる。いささかあざとすぎともとれる「意味」の爆発の予感におおくの観客は不穏をかぎとるはず。上流のパク夫妻による階級差をついた露悪に怨恨をつのらせはじめる下層民、というわかりやすい「構図」――表面的にはとうぜんそのような理解がおよぶが、ことはそう単純にはいかない。この結末はさらにのちにつづく「誤作動」の乱打によってほとんど錯乱した様相をていしていく。どういうことだろうか。

 

どうにかその場は乗りきって脱出に成功する一家だったが、ここから物語のトーンはさらに変幻する。逃げかえった「半地下」の家はトイレ等から噴出した汚水の大洪水によって近隣ごとすでに壊滅状態。うねるような濁流が極大化した情動をかたどっている。圧巻だ。くわえてクロスカッティングの「誤作動」までも起こる。苦境に立たされた例の闖入者が便器にむかって嘔吐すると、他方「半地下」では便器からまっくろな汚水がぶしゅぶしゅと音をたてて噴きあげる。空間的断絶をこえた形象的なシンクロが――とりわけ人物たちの「恨」の――情動を介しておこっていたのだった。人物たちのおかれた状況もおおきく変化する。兄ギウはたえず不安げな表情をうかべたまま、家にあった山水景石に奇妙な執着をもちはじめる。表情のかたいままのギテクは、それでも息子にむかって「策がある」といってのける――「無策という策」が。理屈はこうだ。前もってなにかを計画するから「計画の失敗」という事態が起こる。そもそも計画をしなければ、なにが起きても計画は失敗しない――表面的にはただその場の状況に即応する/偶然にまかせるという一種の楽観主義(あるいは反知性主義)ととれるが、問題は「無計画」=「空虚」がけっきょくは「計画の成功」=「充足」に包摂されてしまうという逆説をもこの論理は内包している点だろう。「からっぽなことがみちたりていること」という倒錯が生じるのだ。

 

それがどういった状況なのかは、以降におこる作中最大のカオティックな一連によって判明する。ここもネタバレ防止のため詳細ははぶくが、そこで多発する「無計画」ゆえの偶然的な「誤作動」だけは抽象的にしるしておく。①暴力発露の主体とその結末②終始不穏をたたえていた山水景石のゆくえ(だれの手にわたり、どうつかわれるか)③ある人物のみための窮地に比してじっさいに致死をこうむるのはべつの人物だったこと④「匂い」を機にすこしずつつのらせたギテクの情動の結実(=それが作動する直接のトリガーが自己自身にはないこと)。いずれもがすこしずつほんらいの予測から誤作動的に「ずれ」=「狂い」、ところが結果だけみれば予測されたカタストロフは――観客はすでに「余白を人物たちがみたすことが映画的な歓喜の場面に直結する」と訓育されているから、あの空虚だった庭をついにたくさんのひとがうめはじめたところですでに期待をつのらせていたはずだ――「狂いなく」起こってしまっているという不均衡があるのだった。顕著なのはギテクの顛末だろう。虚無的な表情のうちに不可視の「なにか」をためこんでいたギテクの予測されたはずの爆発が、自己存在のもつ「意味」とはべつの契機によって作動すること。つまりギテクの顔はそこで「空虚」としてべつのものを包摂=「住まわせて」しまっていたのだ。情動の「とりちがえ」――事態発生の直前、身内の悲痛な状況をつたえるカットがかさねられたこと、しかしその加害者にはもはや情動をかえしようがなかったことからおきた「誤作動」。述べるところは破局的な洞察だろう――人間そのものの空虚さ、すなわち空間性。虚無的な記号としての「顔」――それはブラックホールのように周囲のものを、情動を、意味をひたすらにのみこみ、それでいてけして飽和することがない。かえって空虚に空虚がかさねられるだけなのだった(頻出するフレームインフレームの意味するところはその無為の様態だったのではないか)。それをあらわす役目を「韓国の顔」ソン・ガンホがになったことの畏怖こそをかんがえるべきだろう。

 

映画終盤、父親がおかれることになった苛酷と、なおそこで「半地下」的な世界とのつながりをたもとうとするかれのすがたに、因果の問題を度外視して「うっかり感動してしまう」「誤作動」をも世界中の観客がよびおこしたのはなぜだったか。映画が希求したおそるべき空虚が、ほんらいが倫理をもった「中間性」と形象的にほとんど一致してみえたからではないか。無が無であるために倫理や崇高さをもすいこんでしまうこと――それはいっけんアメリカや北の寓意をもっていそうにみえて、実態はまったくの虚無だった『グエムル』の怪物グエムルと、それと対峙する一家の「からっぽさ」にもみられた事態だった(むろんふかく意味のからまりあった事件を最終的に「無へひらく」『殺人の追憶』『母なる証明』のこころみなども同時に想起される)。そうして中間性と相互的な関係にある虚無とは、端的に映画性のことをさすのではないか。だから興奮だけがのこる。映画の最後にしめされた「計画」が、成功か失敗かの実現をまたず「半地下」の「宙吊り」にさしもどされ「ひらかれて」終わる、あの虚をつくようなラストカットにこそ、本作におけるポン・ジュノの無と中間性をめぐる真のもくろみは含意されていたはずだ。