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備忘録

アニメ映画は映画の夢を語れるか

 

平尾隆之が監督・編集・脚本を兼任した新作アニメ映画『映画大好きポンポさん』を観ながら、今年の三月にNHKで放送され、話題をさらった『プロフェッショナル 仕事の流儀』の『シン・エヴァ』特集回、あのとかく「孤独」としか形容しようのない庵野秀明の制作風景をしきりに想起していた。自分のアタマだけで考え、そこからひねり出したモノは絶対に意想外のモノにはなりえない――そのような旨の言を一時間強だったかそこらの番組放映中、幾度となく口にする庵野は、まずおのが手から絵コンテを描きだすことを禁じ、東映スタジオを借りて役者たちにモーションキャプチャで実際に演技をさせ、アニメーター達にはカメラを回させ的確なアングルを探させ、ときにみずから外へくりだしては素材となる写真を撮ってくるといった奇態を繰り返していた。そうしてスタッフたちが作りあげた映像や撮影した素材、それらをひとまずつながるよう編集したものを観ながら庵野は、口々に「面白くない」といってそれらをひたすら切って捨てていく。ついに業を煮やした庵野はひとり編集室へ籠り、孤独な編集作業へかかずらうようになる(例の「サッポロポテト」片手に)。「わたし」がつくりだす自閉的な状況を抜け出し、新奇で「面白い」作品へとたどりつくためには他者の手を借りねばならない、あるいは「他性」ないし「偶然性」を作品へと盛り込む必要があるが、そうしてつくられたモノはいずれも既視感がぬぐえず、「面白くない」。だから「わたし」ひとりの手作業へと、結局は再帰してしまう――これでは病むのも無理はないとおもった。庵野はそうやって「わたし」の無間地獄からどうすれば抜け出せるのかを、アニメーション制作をつうじてひとり粛々と思考してきたにちがいないからだ。

 

なぜアニメーション作品は不可避に「わたし」の問題を呼び込んでしまうのか――確認するまでもないが、それはアニメがどこまでいっても「記号」でしかないからだろう。そこに描かれたすべての景色・形象・存在は「現実とよく似たどこか」であることからまぬかれられない。極限まで抽象化・理想化されたキャラクターのデザインはときになにか物語上必要な相応の意味をはらみ、そのような寓喩そのものとなり、あるいはだれかをうつしだす「鏡」ともなる。あらゆるキャラクターはつねにべつの誰かに似ていて、それはたとえば現実にあなたの愛するひとであったり、あるいはあなたの憎悪しているひと、ひいては、あなた自身であったりする。だからそこにはあなたの見たいものばかりがいやでも見えてしまう(ファンダムでさかんな「考察」という営為を想起すればいい――あるいは、『シン・エヴァ』について庵野みずから釘を刺すまでにいたった、登場人物を監督自身の周辺にいる現実の存在へと過不足なく照合しようとするあの粗野な「解釈」を)。ゆえにアニメーションは夢を見せる、あるいは「(おのずから)夢を見る」。本邦気鋭のアニメーション研究者、土居伸彰のよく知られたノルシュテイン論などを持ちだすまでもなく、その点はアニメファンであれば誰しもが経験的によく知悉している部分だとおもう。

 

そうしてこれを反転すれば実写映画の要件もひとついえる。この世界にある現実の「モノ」を素材としていること――ひいてはそこにきざす「他性」を撮りきっていること。実写映画の卓越したカメラは風景や空間や動植物だけでない、俳優身体までもが実は「肉」=たんなる「モノ」でしかないことをあばきだしてしまう。だからこそそこへエロスや恐怖やノスタルジー、あるいは畏怖=「リアリティ」がやどるのだ。よって庵野はみずからカメラを持ちだし、アニメーションの自己閉塞へ風穴をあけようともくろんだ――『シン・ゴジラ』を代表とする実写映画への進出や、特撮への拘泥も間違いなくその延長線上にある(というより、特撮への拘泥から出発しているといったほうが正しいのだろうが)。初監督作『ラブ&ポップ』の、電子レンジの内側や宝石店のガラスケースそのものが世界を視ているかのような、あの異様で破壊的ともいえるカメラアングルの選択、そうしてアダルトビデオの達成も視野に入れた、全編ビデオカメラ撮影による少女たちの現在の「記録」と化した映像に、世界の世界性と不可分の他性=「モノ」性にたいする庵野の執着とオブセッションはしめされていたはずだ。

 

それで『映画大好きポンポさん』の話だった。直球のタイトルどおり映画(業界)を題にとった本作で注目すべきは、しかし実のところ(それがアニメ作品であるがゆえに)どこまでも映画ではなくアニメーションの話をしか語りえていない点にあるのではないか。つまり、ここには「イメージだけしかなく」、「他者がいない」。作品の舞台となるのはハリウッドならぬ架空の映画都市「ニャリウッド」。擬似アメリカとでもいうべき舞台設定は杉谷庄吾人間プラモ】の手による原作漫画からの意匠だったが、現実からハリウッドの「イメージ」だけを抽象した「現実とよく似たどこか」として、この選択はアニメという媒体の特性につうじあう。そこでB級映画ばかり撮っている(ロジャー・コーマンあたりがモデルとおもわれる)辣腕プロデューサー=「ポンポさん」のカートゥーンっぽいデフォルメの利いた、どこまでも少女然とした愛らしい造形こそが、なによりもその点を強意している。画面内にいくつもあらわれでる(スクリーンのような)フレーム・イン・フレームにしろプロジェクションマッピング風の演出にしろ、作中に繁茂し、たえざる参照をもとめているのは「映画そのもの」ではなく、どこまでも映画の――はてには映画ですらない、映像の――「イメージ」でしかないのだった。

 

「映画の映画」としての本作の特質は、(映画製作過程のうちでもとりわけ「地味」といえる)「編集」への注視をうながす点に集約される。序盤から小気味よく、見目麗しいジャンプカットやスプリットスクリーンなどの編集技法が頻出、あれよあれよという間に物語上必要な説明を済ませていく作品の音楽的趨勢に観客はまず「乗せられる」はず。とうぜん編集の第一意義は「時間操作」だ。ポンポさんには映画の傑作を定義する金科玉条がある――「上映時間が90分以内であること」。画面への興味を持続させることの困難を逆説的にしめしたこの言は、まちがいなく蓮實重彦による説話経済神話を下敷きにしている(蓮實には初めてゴダール――まさしくそのとき、「編集台で編集作業をしていた」という――へのインタビューを敢行した際、その「上映時間の短さ」という全ゴダール作品に共通の点を最初に取りあげ、それがきっかけで監督から信頼を得たという「武勇伝」もあった)が、作品内ではたんに興味の持続=時間的な問題のみで、「そのほうが数をこなせる」というシネフィリーな量=数的問題は加味されていない点は留意しよう。

 

いずれにせよこの金言が作品全体へ一種のタイムリミットをもうける。創意工夫の必要がうまれる――それで省略だけでなく、プロットのレベルでは巻き戻し(序盤から中盤にかけ、一介のアシスタントでしかなかった主人公・ジーンがポンポさんから新作A級映画の監督に大抜擢され、そのヒロインとしてこちらもド新人の女優・ナタリーが選ばれたことが判明すると、にわかに物語上の時間が巻き戻り、ナタリー側からその時点までの物語状況や空間配置が再整理される演出が意表を突いた)、あるいは観客の記憶を縫って符合をもつ細部により、いかにも「映画の映画」らしくメタレベルで作品時間が複層化していく機微もあった(冒頭、ジーンが水たまりに映画ノートを落とすワンシーンが、のち映画オリジナルキャラクター、現在は銀行員として働く大学時代の同級生・アランとの合流により「過去回想化」する場面、あるいはそのアランがジーンの窮地を救うため乗りだしたプレゼンのさなか、放映される映像が冒頭のものだったと判明=フラッシュ・フォワードだったとわかる瞬間、そうして最初と最後が授賞式場面で円環=「大団円」をえがく全体構造)。これらが外面的には作品の大きな魅力をつくっていることは言を俟たない。映画を観るたび、現場で発見をするたびに手元のノートへメモを書きつけていたかつてのジーンの手の動きは、やがてパソコンのキーを叩きクリックでシーンを切断していく「編集」の動きへ、そうして最終的には作中作をいろどるピアノのアリアよろしい「打鍵」のリズムへと生成していく(その過程がエフェクト=アフェクトをともない「アニメートされる」)。音楽化する編集の快に作り手はたしかに自覚的だ。

 

他方、「編集」は作品においていまひとつ、主人公ジーンの「孤独」にもあてがわれる。こちらが問題だった。このスタジオでは監督が編集も兼任するのがプロデューサーたるポンポさんの方針らしい。それでジーンもひとり編集室へ籠り――冒頭で連想したと述べた庵野の姿はここに重なったのだった――、撮影した素材をパソコンのモニタに向かい、つぎつぎ切り刻みはじめる。そもそもジーン起用の経緯はB級映画の予告編をつくらせたところ、それが好評を得たからでもあった(観客の気を引くため、ワザと本編未使用のフィルム――そこには現場で指示をするポンポさんの姿が入ってしまっていた――を、いわば「染み」的に混入するという、ケレン味のあるひと工夫が決め手になった)。序盤の該当シーン。クマの浮き出た眼で画面にじっと向きあううち、やがてジーンは自分だけの世界へ没入し(「剣戟」するようにフィルムカッターで舞い飛ぶフィルムをつぎつぎ切ってゆくイメージが挿入される――ここにはプロジェクションマッピングを用い、ふつう単調にならざるをえない漫画執筆場面を「少年漫画的に」身体的なアクションへと変転させていた大根仁バクマン。』から、アイデアがおそらく流用されている)、我を忘れて編集作業に没頭する。俳優やスタッフ、金銭的援助も含んだプロデューサーら他者から離れたどこまでも孤独な、自分ひとりだけの世界――そのような場としてこの編集室はあった。

 

これは自分の作品だ、とジーンは作中、何度も注意をうながす。さらに終盤、編集作業の開始とその難航が示唆されると、自身で撮影し、いま編集しつつある作中作の内容と、ジーン自身の立ち位置がしだいに「共鳴」しはじめさえする(作中作は、粗暴で知られる大物音楽家がいちど閉ざした音楽の夢を、休養先の少女との出会いを介していまいちど志し直すというストーリーのもの――やがて音楽のために家族を捨てる「狂気の」ディティールのため、ジーンは追加撮影を申し出ることになった)。ここに編集のもうひとつの効能がある――並べられた諸物を「シンクロ」させること。だから作品は序盤を時間進展のために、後半を登場人物たちの相互共鳴のためにと「編集」のメインモードを変哲させていることがわかる。とうぜんエモーションに割り振られる後者のほうが作品の「本音」だろう。そこではジーンが、作中作の大物音楽家が、ジーンに感化され彼を支援しようとする、大学時代の同級生で銀行マンのアランが、そうして編集室で、あたかもジーンにとり作中唯一の「他者」かのように同席した女優ナタリーまでもが、文字通りひとつに「重ね合わせられる」(映画のフィルムというよりは、「セル画」よろしく)。つまり、本作の登場人物たちは全員が「おなじわたし」なのだ――むろん、映画を観る「あなた」=「わたし」も。

 

たしかに作品には「他者(的なもの)」がまったく不在なわけではない。だが実写作品であれば第一に猛威を振るう他者たりえるはずの天候や自然=ロケーションは、いくつかのトラブルも機転によりあっけなく回避してゆくジーンの、監督としての能力の説明にどこまでも使役するだけだ。そこに居合わせる役者やスタッフもみな例外なく優しく、惜しまずにおのおの作品の洗練のためのアイデアを持ち寄る(とりわけ「雨中での小屋修理」→「屋根からの落下」→「泥の投げ合い」とアイデア微分的に進展し、それが劇中劇として受肉する一連は、泥に足を取られ滑って転ぶ作画とモーションの鮮烈さともども、「名シーンの名シーン」にはなっていた)。後半、ポンポさんに土下座で頼み込んで追加撮影を許可してもらった際も、撮影を愉しむ彼らは文句のひとつも言わなかった。

 

そのポンポさんについてはどうか。ジーンは語る――曰く、自分が映画を撮るのは「彼女」、劇場にいつもいて、かならずエンドロールの終わる前に立ち去ってしまう「あの彼女」を、ほんとうに満足させるような作品をつくりたいからだ、と。そこで語られる「彼女」に代入されるその人こそ、ふつうに考えれば上司にして観客たるポンポさんなのだが(事実、述懐とともに照らしあわされるのは、劇場の外に出ようとドアを開けた彼女の明瞭なシルエットが、外の後光を浴びながらありありと浮かびあがってくるさまだ)、そのわりに「彼女」というここでのいやに迂遠な物言いが、わずかに当人を「イメージ」の次元へと押しあげていはしないか。「彼女」は象徴化・抽象化している――夢の偶像、映画にたいする憧憬の擬人化、完成品のフィルムに混入した「染み」=対象а、ひるがえって女神のような存在へと。とうぜん「孤独な彼の」、という留保もつく。つまりポンポさんすらもいわば「幻の女」として、「わたし」の自己像に回収されうるのだ。幾度となく反復される試写室でひとり作品を観るジーンがそこで観ているのは、だから映画でなく、つねに自分自身の像でしかないのだった*1(このような状況を歴史上、苛烈な自罰をまじえて批判していたのもやはりくだんの庵野だったわけだが――『Airまごころを、君に』の上映さなか、とつぜん挿入される、試写を観るオタクたちの「鏡を見ているかのような」、もはや語り草となったあの姿)。

 

作品が称揚する狂気は「孤独」を推奨する。学生時代に幸福だった者は名作を撮れないのだと、だから逃避の果てに鬱屈しまくった人間だけが巨匠になれるのだと、ポンポさんは説く。そうしてオタクであることを許容する。べつに批判がしたいわけではない、ただ端的に時代の趨勢が変わったことと、そうして何度も言うように、作品が映画ではなくあくまでアニメーションについてしか語り得ていないことを確認したいだけだ。ただし目的成就のためなら過労に臥せった病室を抜け出してでも、すべてを切り捨ててでも夢を叶えようとする酔狂人=芸術家の「イメージ」は、なおもって「紋切型」でしかないことは指摘しておくべきかもしれない。それはかならずしも本作の瑕疵にはならない。が、「庵野当人」ではなく芸術家=狂人たる「イメージとしての庵野」を追ってしまっていた『プロフェッショナル』にかんしては、とうぜんアニメではない、ひとつの「ドキュメンタリー」作品として、是非を問われるべきだろう(その点も知悉していた庵野は、だから自分への注視を散逸させるよう番組スタッフを何度も説得していたはずなのだが、その拒絶のそぶりがなお奇人としての像を強調させてしまう点に、ほとんどなにか寓話の登場人物ような悲哀がにじんでしまってすらいた――やはり、無間地獄だった)。

 

『ポンポさん』に話を戻せば、「編集すること=切り捨てること」の残酷さがほんとうに物語に受肉していたかについては慎重な検討が必要だ。学生時代からずっと孤独だったと独白するジーンは、ところが端的にその事実によってのみ、作中では救抜されてしまっている。現在という「(編集後の)成果物」においては、音楽家が捨てた妻子のような犠牲に相当するもの――たとえば、「ありえたかもしれない青春の日々」――が、もはや不可視だから。たしかに「いま」苦悩はした、過労で倒れもした、だが、それだけといえばそれだけだ。結局そこには挫折も、「他者からのしっぺ返し」も――追加撮影をもとめ、職人でなく芸術家であろうとしてしまうジーンが、ひとりの仕事人にして夢をつかさどる女神たるポンポさんから、なにかしらの懲罰を受けることは絶えてなかった――不在なのだ。逆にいえばその「いっさい滞りのない」「過不足なく了解のとれた」「どこかつるりとした印象」こそが、どこまでも現在時的な「映像」には相応しいのだともいえる(その点撮影が突出、どこまでも平坦で美麗なグラフィック「しかなかった」、『君の名は。』から時代はなお変わっていない――むしろ2010年代初頭、コンポジットを主体にした現在の「映画っぽい」モードを最初に先導したのは、ほかならない平尾自身が監督したufotable制作『空の境界 矛盾螺旋』でもあったわけだが)。

 

考えてみれば終盤、アランがジーン(の夢)への融資のためプレゼンの場で弁舌をふるう場面では、会議を隠し撮りして全世界へ配信するという機転によって(フランク・キャプラ的といってもいい?)人情派的な一種の逆転劇が企図されていたが、ここで「上映」された「映画の夢を語る制作者たちの(一種の)ドキュメンタリー」が、「配信に乗った」というのも、どこか示唆的だ。くわえて直後に流れる(「擬似ハリウッド」たる当初の世界観からはやや不調和な印象も受けた――つまり、そこからいよいよ「モードが変わった」ようにしか見えなかった)挿入歌がインターネット出身のユニット・DUSTCELLのEMAによるものだという点も。いまひとり招聘された客演がやはりヴァーチャルシンガーの花譜――声優としてみごとな好演をみせた清水尋也とは、そういえば山戸結希による異形の大傑作『ホットギミック』以来の縁だ――だった点も重ねて、作品が呈示する「映画(のイメージ)の変遷」、あるいは「映画の経済性」の問題を、とりわけ作中のキーワード「編集」「90分以内」という「みじかさ」への志向も意識しつつ、いまいちど再考すべきだろう(書きながら最近話題になっていた「ファスト映画」についても考えがおよんだ)。この作品は、この小気味よい「編集」は――はたして映画のものか、たんなる映像のものか? いまやその差異は(そうしてもはや両者に差異がないのだとしたら、映画とアニメーションの差異もまた)? わかっているのは、そのような映画=映像のあり方が、あるいは芸術家=狂人=孤独なオタク=酔狂人という紋切型の受容が、あくまで現在時の若者にとっては「リアル」たりえる、ということだけだ――その是非じたいは、ここでは問わない。

 

映画(のイメージ)を媒介して、作品はしかしどこまでもアニメーションについて雄弁に語る。アニメーションは映画の夢を語れないのだろうか、あるいは、語ってはならないのだろうか――その疑問に答えてくれる可能性をもつのは、「映画(っぽさ)」=リアルでフェティッシュな作画の追求、と単純化するにとどまった『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』でなければ、今年の公開をひかえている細田守や吉浦康裕の新作、イシグロキョウヘイの初劇場作品、あるいは『EUREKA』のいずれかになるのだろうか。それともいまだ知られざる、来たるべき作品がそれをあらわすのか。それをたしかめるためだけでも「わたし」はまた映画館へ向かうのだろう。いま映画館では上映の直前、かならず場内に完璧な換気設備のあることが強調されるが、それでもすぐとなりにひとが座る瞬間には否応なく緊張と覚悟をしいられる。ここはひとりだけの試写室ではなく、自己自身をおびやかす可能性すらある、あのおそろしい他者との共存を余儀なくされる場なのだ――いまなお収束のめどが立たない未曾有の病禍にばかみたいにおびえながら、そんな至極あたりまえのことに、いまあらためておもいあたる。

 

 

 

*1:そういえばジーンはつねに「メモを取りながら」=自己記憶を複製・外部化しながら映画を観ていた。アランからかつてのノートの件を謝罪されたとき、内容はぜんぶ記憶しているから大丈夫だ、という旨をジーンは答えていた。そのとき観ていたのは、あるいは反復していたのは、当の映画の画面以上に、それをもとに書いたメモ=「(自己自身の)記憶」のほうだったのではないか。これは意地悪な見方がすぎるだろうか。そうして本来、映画館で観た映画の完全な記憶はふつう外部化できるものでなく、あくまで圧縮的に「身体化」されるしかない。だからあのメモのように外部化された記憶とは、むしろ映画館でのぞまれる映画以降の、「映像」の次元にあるようにおもう。

話数単位で選ぶ2020年TVアニメ10選

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媒体をもったら一度やってみたかったのが毎年恒例の「話数単位」。前任から引き継いだaninadoさん(https://aninado.com/archives/2020/11/30/481/)の記述によれば、ルールは「2020年1月1日~12月31日までに放送されたTVアニメ(再放送を除く)から選定」「1作品につき上限1話」「順位は付けない」とのことで、これに準拠する。ただし「作品」という価値尺度があるなかをあくまで個々の挿話「だけ」を選択するのにはやはり相応の根拠も必要だとは(個人的な信条として)思う。そうなると「その挿話」という「部分」が準拠する作品全体との照応関係などもまた要になってくるはず。すぐれた作品全体をあらわすみごとな象徴となっているような一話、あるいは逆に、ほんらい均整のとれた作品全体のなかで唯一の例外として異光をはなっているような一話、もしくはトータルでみればおよそ不完全燃焼ともみえた作品全体を、その挿話の存在によってもろとも救済しえているような一話――等々、多くは作品全体、あるいはそれに準ずるなんらかにたいする「特異点」として機能するべきたぐいのものになるのではないか。ということでフェイバリットな作品全体のことも概観しつつ、さらにその特異点となるような話数を以下に選んだつもりだ(とかいって実際にはおもくそルール違反のものもあるので、まあ、それじたいリストにおけるひとつの特異点だと思っていただければ……)。

 


ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』第1話「はじまりのトキメキ」

脚本:田中仁 絵コンテ:河村智之 演出:ほりうちゆうや 作画監督:尾尻進矢、粕川みゆき、菅野智之 ダンスパート作画監督:横田拓己、冨岡寛 総作画監督:横田拓己、冨岡寛、吉岡毅


今年はこれ一本あればいいかもしれない――そうとまで思わせる珠玉の一話が『ラブライブ!』シリーズから現れたことのうれしさときたらない。ベンチではいつもふたり横ならんで座り、食べるものはかならず「半分こ」、マンションすらもとなり部屋と「横ならび」の関係性に終始する侑と歩夢、幼馴染ふたりの日常を反復描写でていねいにつづったのち、階段の高低差を利用した「ステージ」へと歩夢が踏み込むラストシーンでそれらを一気に「踏破」する――その「差異が産出される瞬間」を絶対にのがすまいという姿勢がとにかくすばらしかった。従来の並行関係は見る者と見られる者の高低差へ、手を引かれる側だった歩夢はいまやみずから侑の手を取り、黙していた日々を脱し堰を切ったように言葉があふれだす――「わたし、好きなの!」/「わたしの夢を、一緒にみてくれる?」。その「告白」の真摯さにひたすら泣く。なによりうつくしいのは「見立て」だ――「あなた」の「擬人化」でもある侑にたいする、恋情ともみまがう歩夢の想いのつよさにくわえ、近未来的な生硬さがときに神殿のような崇高を帯びるお台場の風景、そうして学校へ「見立て」られたビッグサイトのどこまでも虚構然とした佇まいもあいまって、つづけざま虚構のライブシーンへとなだれ込んでいく奇跡的な一連ともども、どこまでもフィクションへの愛に充ちた完璧な構成の一話だったと思う。
文字通り中須かすみを中心として、それぞれの人物たちの行動・役割を前後左右の構図性へ配分、みごとな「交通整理」をおこないながらの群像劇を展開した2話「Cutest♡ガール」、スクールアイドルの化身・優木せつ菜が拘泥し連発する「ラブライブ(という大会)」の語が、「ラブライブ(というシリーズ)」への自己言及ともなり(随所にみられた周到な無印オマージュにも舌を巻いた――本気でシリーズを建て直そうという気概だろう)、そこからの離反が逆説的な「神降ろし」を可能にする――恩寵のように降り注ぐ太陽光、直後おこなわれるライブパート演出=京極尚彦――3話「大好きを叫ぶ」と、群像劇的な強度をもっていた序盤以降の「当番回」乱打で物語はいくぶん弛緩してしまうし(例外は8話、虚構内虚構が最後に脱臼されることで虚実を併せ呑んだ「現実としての演劇」が顕現する「しずく、モノクローム」)、侑と歩夢を介して『リズと青い鳥』よろしい「幼年期の終わり」をえがこうという終盤の意欲も買いたいが、やはりパワーダウンはいなめず――それでも、なお一話~三話の強度が作品全体を救抜してもいて、かつて無印に「狂った」身の(しごくどうでもいい)郷愁などは度外視しても、いやおうなく愛さずにはいられない作品になっていることがとにかくうれしい。二期も、是非。

 


かぐや様は告らせたい?~天才たちの恋愛心理戦~』第9話「そして石上優は目を閉じた(2)」「かぐや様は触りたい」「かぐや様は断らない」

脚本:中西やすひろ 絵コンテ:畠山守 演出:愛敬亮太 作画監督:川崎玲奈、山崎浩総作画監督:山口仁七、矢向宏志


なんでかこの作品にかぎっては毎回「悔しい」と感じてしまうのだが(異性愛だからか?)、とにかく面白くて仕方なかったアニメといえばやはりコレ。画面の高速展開により次から次へと繰り出されるギャグとパロディのつるべ打ち、おびただしい演出の手数と「勢い」そのものが笑いに化けていく衝撃があって、馬鹿力でぶん殴られつづけながら痙攣的に爆笑しているようなわけのわからない状態に毎度まんまと持っていかれる。悔しい。かぐやと御行の「恋愛心理戦」はそのままスクリューボールコメディそのものの作法だが(実写畑の作り手はこれをみて嫉妬しないのかといつも思う)、一期と比すると生徒会室での室内劇を逸脱する挿話もいくぶん増え、またかぐやの御行にたいする恋愛感情のかんぜんな萌芽もあって作品組成じたいが微妙に変化してきた機運も感じた。そこへ生徒会の卒業と再選挙、新キャラ・伊井野ミコの登場、また終盤では石上会計の過去がフィーチャーされるエピソードなども数話またいで展開され、盛りだくさんながらワンクール全体の調和もととのったあいかわらず完成度のたかい作品となっていた印象だ。
それにしても監督・畠山守は生まじめな演出家だと思う。最終話付近にかならず「終わり然とした」エピソードを配置するていねいさもそうだが(これは金崎貴臣『プリコネR』にも感じたことだが、個人的な好みでいうと、ギャグアニメの幕引きは全員もっと『邪神ちゃんドロップキック’』くらい雑でいい)、そのまじめさが最大限に発揮されたのがやはり11話だろう。クールまたぎで周到に張った石上会計の過去にまつわる伏線がここで爆発、ドアを蹴破り手を差しのべる御行の内破力がそこへブーストをかけ、尋常ならざるエモーションを獲得していた屈指の挿話だ。いっけん狂っているようで本質は実直、かつ圧倒的な力による「ゴリ圧し」が作品の要だという点で、作品そのものを代表する一話として選出にはふさわしい……と、頭では考えつつ、かんぜんな好みでその手前、謎の『スクール☆ウォーズ』パロディにはじまりライティングもテクスチャーも画面サイズもギャンギャン変形しまくる画面と無駄に動きがぜいたくなかぐやのやはり謎な「ヴォーグ」ルーティーン探しや格ゲー風画面、そうしてこちらも数話越しの積みかさねが奏功したミコの「入室キャンセル」で笑い死にさせられそうになった9話をチョイスした。キレッキレの畠山コンテの暴れっぷり(演出は愛敬亮太――今年はこの方の名前をかなりたくさんみた気がする)がとにかく気持ちよく、とりわけお気に入りの一話だ。

 


ゴールデンカムイ』第三十三話「革命家」

脚本:吉永亜矢 絵コンテ・演出:熊膳貴志 作画監督:山田正樹、赤坂俊士、総作画監督:梅津茜、宮西多麻子


原作からしてすでに「勝負」の局面だったのだろうが、それにしても三期の熱気には尋常ならざるものがあった。作画はいくぶんリッチに、それでいて活劇のかろやかさもそこなわず、物語じたいのおもしろさも推進力となりとにかく魅せる魅せる。ギャグとシリアス、笑いと暴力の不可分に融けあった闇鍋ならぬ「闇ラッコ鍋」スタイルがやはり本作の懐刀だろうが、三期の洗練された恬淡な語りがさらにそこへ静/動の混淆をも印象させ(三十話、スナイパー対決における尾形の「一瞬の勝利」)、深さ/浅さの境界をあいまいにし(画の平坦さに比したベテラン声優陣の熱演模様)、ひいては速さ/遅さまでも弁別不能にし無時間的なカタルシスへといたる驚異――この比類ない体感に毎話のめり込んでしまう。そのもろもろ混ざった同居性はむろん敵味方の無分別やアイヌとの共存や「食」や「変態」の主題ともほうぼうで呼応しあう――などとも思うのだがそんなことはもはやどうでもよく、とにかくこんなにおもしろくていいのかというのがなにより問題。杉元一行がアシリパたちを追うチェイスの一連にワンシーズンを割いたことで全体にひとつの物語としてグッと引き締まったのも成功の一因だったのだろう(サスペンスのピークと帰結が流氷上というのもどこまでもドラマチックだった――『東への道』か?)。「闇鍋」というか「闇ギョーザ」度合でいけば「カワイイ・グランギニョル」とでも形容したくなる暴力と愛嬌、稠密な背景作画とパペット的なCGの絶妙な配合・配剤がひかった『ドロヘドロ』とツートップだろうか。
三度の登板となった安藤真裕絵コンテ回の強度がいずれも一気呵成ですばらしく(爆笑とエモーションの洪水でほとんど気がふれそうになる「バーニャ!」の二十六話「スチェンカ」、サーカスでのバカ騒ぎに笑い鮮烈な痛覚の表現に戦慄する二十八話「不死身の杉元ハラキリショー」、そうして本期随一のペシミズムと老獪な剣戟がめざましかった三十二話「人斬り」)選出を迷ったのだが、やはり物語的にも衝撃度が高く、絵コンテ・演出=熊膳貴志の静謐な演出がひかった三十三話の余韻を最優先した。緊密なカット連関と視線劇がつむぐサスペンス、倒立した写真機内の像と手配写真がいろどる「偽装」をめぐるドラマ、三者三様の人物様態を言葉すくなに語りきる活劇シークエンス(クレバーでドライなウイルクの無気味な挙動と無表情が怖気をふるい、たいするソフィアの「情」も際立つ、このみごとな対照)、「誤射」場面の息を呑むフェイントと呼吸の妙、そしてラスト、「存在しない回想のつづき」……それにしてもあのどんでん返しにはほんとうにぶったまげた(中野泰佑という名前はたしかに記憶へきざんだ――ここまで人物の同一性不安に恐慌をおぼえたのはひさしぶりだ)。ヒッチコックというよりはドン・シーゲルのように渇いた体感にとにかく震撼した一本。今年であれば「お見事!」の一声はむしろこの挿話にふさわしいだろう。

 


魔法科高校の劣等生 来訪者編』第2話「来訪者編 Ⅱ」

脚本:中本宗応 絵コンテ・演出・作画監督高岡じゅんいち 総作画監督:石田可奈


一話冒頭から引用される『DARKER THAN BLACK黒の契約者』の記憶に姿勢を正された視聴者は多かったのではないか。今度のお兄様はひと味違う――劇場版から続投した監督・吉田りさこの辣腕がひかり、一期同様ラノベ原作のプログラムピクチャーめいた雑多さを維持しつつ、光と影の明暗対比がうつくしいぜいたくな画面構成と、経済的な語りや活劇がかしこで展開される満足度のきわめてたかい逸品となっていた。主人公・司波達也特異点としてえがきだす政策が明瞭で、同系統の作品に特有のストレスがすくないのも美点だ(くしくも同クールにもうひとり「最強の中村悠一」を擁する『呪術廻戦』もあったが)。反面、やはりラノベチックな「茶番」や「お約束」も忘れず、ところが随所で主題とも共鳴する重要な演出を盛り込む余裕をもみせ――たとえば敵・パラサイトの存在が印象づける魂/肉体の二元論は、画面的にはエフェクトのうつくしい魔法の光とノワーリッシュな闇のキアロスクーロにあらわれ、さらに深雪やほのかの達也への思慕(=「魂」的なもの)とも共鳴しあうし(バレンタインのエピソードが主題にも架橋するみごとさ)、ほんとうは等身大の高校生の身で「仮面」をつけエージェントに甘んじるリーナの「仮面/実体」の二元性とも、ひいてはそれとよく似た境遇の達也本人とも呼応しあう(だとすれば、魂に比する肉体性/仮面にたいする内奥を裸身で印象づける達也のシャワーシーンすら、演出の一環だったのではないかとまで……いや、さすがにこれはパラノイアか)――とにかくどこまでも(お兄様のように)抜け目ない二期だったように思う。
なかでも異様なまでの妖気をはなっていた二話を選出した。リッチな陰影と色気ある夜の闇と、そこにうかびあがる無気味にえがかれた敵・パラサイトの造形がいずれもすばらしく、画面全体にいきわたったノワールな雰囲気にまずはうっとりしてしまう。とりわけパラサイトを前後方から挟み撃ちする、直線上での戦闘シーンのひたすらな格好良さ。さらに顎までうごかす余力にみちた発話時の口パク作画が(なかば「無気味なもの」的に)いちめんにたちこめる不穏な空気と緊張感を醸成する一助とすらなっていて、Bパートは説明主体となった画面をまったく弛緩させない(Aパートに戦闘を割き、Bパートは丸ごと説明というアンバランスさもすごいが)。ときにおどろくような大胆さでカットを割る余裕もしのばせ(病室からエレベーター内への大胆なカット連関にはとくに息を呑んだ――相当な映画への造詣のふかさを感じた細部だったが、これは絵コンテ・演出=高岡じゅんいちの嗜好なのだろうか)、作画的なぜいたくさと「語り」そのものへの意識の高さに、とにかくうならされた一本だった。

 


『ID:INVADED イド:インヴェイデッド』FILE:06「CIRCLED 円環の世界」

脚本:舞城王太郎 絵コンテ:久保田雄大 演出:久保田雄大、栗山貴行 作画監督:浅利歩惟、豆塚あす香


ざっくりレビューのようなものは以前挙げたので割愛するが(ほんとうに拙いものでたいしたこと書いてないが)、どこまでもミステリの骨法に淫したストーリーテリングとソリッドなレイアウトを重視した「徴候的な」画面構成がすばらしい、とにかく格好良くて毎週が愉しみだったアニメ。監督・あおきえいの得手と当人がやりたい方向性の(久方ぶりの?)合致にくわえ、脚本・舞城王太郎の作家性がみごとそこへブーストをかけ、オリジナルアニメとしては中々のスマッシュヒットになったのではないか。舞城の卓越したシリーズ構成の手腕には脱帽。それにしても今作の出来をみるにつけ、アニメ業界もどんどん異業種の脚本家を取り入れていくべきだとはつくづく思う(その点、来年の目玉は円城塔が脚本を担当した『ゴジラS.P〈シンギュラポイント〉』だろうか)。
上述の記事内で「砂漠のイド」前後の挿話にはふれたので、ここでは作中屈指のメランコリーを露光し、それじたいが物語全体の「空虚な中心」たりえていたFILE:06「CIRCLED 円環の世界」をチョイス。本堂町対数田の息を呑む帰結にはじまり、同僚の葬式と「喪」の主題が連鎖、イド内における井波/数田の視線のリフレクト、電車のイドのアンチ・ミステリ的な全貌があかされるとともに襲いくる虚脱感に、それと対比される松岡と本堂町の離別(その「穴」の所在をあかすように画面向こうで尾を引く飛行機雲)……いずれの徴候も作品全体へふかく翳を落とす鬱屈の根源たりえる力を遺憾なく発散していて、ここで「穴」の主題が――針の「穴」に糸をとおし、諸項を連鎖させるようにして――「円環」へとスライドされた点でもなお象徴的な挿話だろう。この円環はさながら「土星の環」。全編が「探偵」による解釈を待つ寓喩的な星座と化していた物語空間および画面にあって、まさに本話こそが宇宙空間の特異点をなす「穴」となりえていたように思う。

 


『ミュークルドリーミー』第28話「まいらマイラブ♡」

脚本:金杉弘子 絵コンテ:桜井弘明 演出:石田美由紀 作画監督:大木良一、坂本哲也、古木舞


なにを置いても忘れてはならない本年度指折りの傑作がやはりコレだろう。隅から隅までぎゅうぎゅうに詰め込まれた台詞、とにかくゆたかすぎる動きが画面いちめんにひしめき、一瞬たりとも目を離すスキのないもはや言語化不能な面白さに貫かれたとにかく愉しいとしかいいようのないそれじたい夢のようなアニメ。体感自体はどこまでもかろやかでスルスル観れるのに毎話「まだAパートだったの!?」と困惑してしまうこの圧倒的なカロリー供給量がヤバい。形式そのものはあくまでキッズアニメの作法に忠実、なのにそこからあぶれた余白にこれでもかとギャグをぶち込んできたり「お約束」を最大限に「悪用」しとにかくアソビ倒してくるのだからとんでもない。折り紙でたとえるなら――『襞』ではないけど――「鶴を折ってください」という課題にたいし、折られた鶴の羽根からもう一羽小さい折り鶴が生えてきてるだとか、あるいは折り鶴の羽根の小さな余白部分にどうやって描いたのか漫画が連載されているだとか、かと思えば折り紙を一回折っただけの三角形を急に「折り鶴」と呼び始めるような、そんな感じのデタラメさ(信じられないくらい伝わらないたとえ)。こういう作品に出会うたびゴダールとかピンチョンとかみんな本質的にはコメディ作家なのだろうなとつくづく思う。そんなてんやわんやの中で杉山先輩の「闇」にせまるエピソードをはじめ物語そのものもしごく真っ当に展開していけるのだからどこまでも侮れないアニメだ。
全体的に良い作品という印象なので傑出した一話を選出すること自体がナンセンスな気はしなくもないが、あえてという話になるとやはり28話「まいらマイラブ♡」(たぶんこの企画の中でいちばん推薦する人が多いのではないかと勝手に予測しているのだが)。突出しているから良いというよりは、むしろ普通の作品だったら素直に特異点と置くような「死」という出来事を、あくまで他の挿話と同等のトーンで扱う点に作品のスタンスがはっきりあらわれていて、かつ、それがまいらというキャラクターの魅力の過不足ない説明ともなっているものだから、視聴者としてはかえって催涙性がたかめらてしまうという、どこまでも強くやさしい逆説に裏打ちされた挿話。「夢」というテーマのみごとな操作にしても、悲哀や寂寥というより幸福そのものの結晶としか呼びようのないあのひとしずくをしずかにとらえたあまりにもみごとなラストカットにしても忘れがたい細部しかない一話だったが、もはやなにを口にしても野暮になってしまうというか、これを目の前にするとただ押しだまりうなずくしかないようなとにかく言葉の非力を痛感する一話でもあったりする。

 


『Lapis Re:LiGHTs ラピスリライツ』Ⅵ「Ruin Explorers」

脚本:土田霞、あさのハジメ 絵コンテ:武市直子、畑博之 演出:武市直子 作画監督:應地千晶、橋本有加、池上たろう


今年でも一、二を争うくらい幸福度の高かった作品。フォーマットじたいはあくまでふつうのソシャゲ/アイドルアニメで、むずかしいことはなにもやっていないのだが、ただ、カメラがある。各ショット、画角へ人物をどのように配剤するかの、逐一周到な目配せがある。必要なぶんだけカットを割り、それにより空間を立ちあげ、ドラマを各人物へ配分・構築してゆく機微がある……ほんとうにただそれだけだ。それだけのことが過不足なくできているアニメをワンクールきっかりみられることの至福。どこまでも落ちついたセリフやアクションの間の取り方、音響への気配り、オフや画面外への意識がとにかくゆきとどいていて、そこに拡がる世界そのもののゆたかさをけっして捨象しない、慈愛と職人技にみちた手つきがとにかく心地いい(メイン五人がロビーで会話している場面だけで延々みていられる)。物語じたいも感傷にはふりきらず、いずれのエピソードも「やさしく」着地する帰結をそなえていて、その過程で数のおおいキャラクターの弁別が徐々にできてゆく実感がまたうれしく、かえすがえすもアニメをみることの愉しさにみちみちた作品だった(続編も是非)。おなじくソシャゲ原作、本作と同様の「世界そのものへふれるよろこび」をたたえた、「ビッグバジェットだがプログラムピクチャー、それでいて監督のプライベートフィルム」とでもいうべきやたら矛盾した印象をともなっていた『プリンセスコネクト!Re:DIVE』のとなりにならべておきたい気持ちも。
まんべんなくよいアニメだったので一話だけ選抜するのは難儀。路地を「ひらいて」ゆきながら展開されるチェイスが愉しい2話、アンジェリカとルキフェルのコンビが好きなので5話、伝説のグループ・Rayの過去が語られる(あとアンジェリカも最高のかたちでフィーチャーされる)8話、トンチキすぎるアシュレイの虫歯のマクガフィンがとにかく気になる(あとアンジェリカとルキフェルが好きなので)9話、そうして各ユニットがメドレーで展開するオルケストラが過不足なく最終決戦のエモーションと親和していた集大成的な12話……と、あれこれ悩んだ末、6話のホラー回をチョイスした。Ⅳ KLOREのふたりを軸に間歇するギャグがとにかくたのしいが(エミリアとあるふぁの温度差がほんとうにいい)、ところどころの演出は意外とホラーの文法に忠実、そのため雨音や赤ん坊の泣き声といった音響への意識や、意表をつくカットの割り方など、本作の演出の練度が比較的わかりやすい挿話にもなっている。とりわけティアラが戸の割れ間から顔をのぞかせる瞬間、にわかに空間が接続される感覚のすばらしさときたら。道中さんざん「顔芸」を披露していたエミリアのやさしさに最後は丸くおさまり、エンディングで大団円のライブに突入するどこまでも気の利いた物語展開も◎。それにしても、つくづくいいアニメだ。

 


『ぶらどらぶ』Episode 01(特別篇)"Vampire Girl, Bloody Excited"

脚本:押井守 絵コンテ:西村純二 演出:浜田翔太 作画監督:清水勝祐、川添亜希子、今里佳子、中村和代、大久保義之 総作画監督:青野厚司


作品単位も兼ねるといっておきながら一話しか放映していない(しかもwebだし)例外を入れるのは正直自分でもどうかと思うのだが、よかったのでつい選出してしまった。御大のギャグセンスについては専門家にゆだねるとして、はてしなく見覚えしかないアバンにはじまり景気のいい献血バス爆破、そこからの会話劇をキレキレの画面処理でテンポよくみせる一連にひたすら恍惚した第一話。近年では安藤正臣監督が多用しているような漫画のコマ割りふうの分割画面が最大の武器で、ただし「割る」ことによる平面的なテンポの構築にとどまらず、ひとりの人物の同一アクションを「1カメ、2カメ」的に二分したり、割った画面の後方で割られる前の画面も動かし奥行きをつくっていたりと、「動きの創出」そのものに焦点がある点が差異か(とりわけマイが貢を押し倒すシーンには驚愕した)。ギャグアニメにふさわしい「呼吸」。I.G.のガチ作画そのものをギャグにしてしまうぜいたくさも良い。百合についてはムーブメントへの殴り込みというより世相を鑑みての判断という印象がいくぶんつよく、ほんとうに文字通り「中身オッサン」な主人公・貢の「居直り」を周到に察知した佐倉綾音の知的で嫌味ない演技も見物。とはいえ上記の特徴が真に作品の「文法」となりうるかはまだ不明だし以降の展開でコケる可能性も充分ありうるが、まあ、そのときはそのときで*1
尺があまったので今年印象的だった百合アニメを振りかえっておく。『アサルトリリィ BOUQUET』は毎週ボンヤリみはじめても一か所はかならず目を引く箇所があらわれるアニメで(8話の結梨の戦闘シーンだとか)、『マギレコ』放送年に同スタジオがこんなにオールドスクール(?)な「魔法少女モノ(の変奏)」をやっていることのいびつさにくわえ、アンバランスなシリーズ構成も妙に愛嬌があって気に入ってしまった作品。みんな大好き楓・J・ヌーベルの作劇的恵まれっぷりがとにかく良く、その意味ではやはり10話がベストか(遠藤亜羅椰にももっと暴れてほしかったが)。共感性羞恥に苦しみながら完走した『安達としまむら』はピンポンから宇宙へ架橋する寓喩的な演出が全編とおし興味ぶかく(ただし台詞の質感などからみてその演出プランが原作の翻案として正解だったかには若干の疑問もアリ)、天才・鬼頭明里にくわえ鬼才・茅野愛衣――安易に「佐伯沙弥香ポジ」へあてがう「邪悪さ」は✖――までもが後半名を連ねるとそれだけでじゅうぶんお釣りのくる一本になってはいた印象。およそ「熱演」とは無縁の知的な低体温演技を貫徹する鬼頭明里は『虚構推理』で発揮したプレゼンスともども間違いなく今年の女優賞。なお鬼頭明里は来年『シャドーハウス』、茅野愛衣は『裏世界ピクニック』がすでにひかえていて、なにとはいわないがこれも「正しい」。話数単位で印象的だったのは『プリコネR』8話。宮澤伊織「風景としての百合」に対抗(?)して「活劇としての百合」を個人的には提唱していきたい。

 


ハイキュー!! TO THE TOP』第16話「失恋」

脚本:岸本卓 絵コンテ:仲澤慎太郎 演出:堀内勇治 作画監督:折井一雅、鈴木絵万 アクション作画監督:佐藤由紀 総作画監督:小林祐


ハイキュー!! TO THE TOP』の1クール目にはとにかく困惑させられた。三期までのあの爽快感がないのだ。満仲勤から佐藤雅子へと監督はじめメインスタッフの異同があったのは知悉していたが、それにしてもシリーズ最大の美点ともいえるあの透明性や祝祭性がいくぶんなりをひそめていて、視聴当時はひたすら困惑のほうがまさってしまった。同様の想いをいだいたファンによっては作画を批判する向きも多かったようだが、むしろ作画じたいは以前より緻密さを増しているようにもみえ、ただ、細部が絶妙に噛み合わない――「相手チームがサーブした直後の自陣のリアクションがワンカットぶん足りない」とか「このショットはカメラの引きが足りない」とか、たぶんその程度のものなのだが――その微妙な差異のせいでエモーションが熱を帯びきれないのだ(たぶん作画への非難も、彼らなりに違和感の根源をさぐった結果、言いあぐねて「作画」という語彙が出ただけだったのだろうが)。最終13話はソリッドでカッコいい着地とみえたが、それでもまったくの別作品になってしまったような違和感はぬぐえず(なんだか『けいおん!』のような微温性が目立った気がする)、あらためて三期までのめくるめく強度と、そこからバトンを継ぐことの難しさに想いを馳せることになった。
異変が起こったのは明けて2クール目の15話、「作画崩壊」の四文字がツイッターのトレンドに躍ったときだろう。鑑賞しているぶんにはさほど気にならないレベルとはいえ、あの『ハイキュー!!』が「ボールを落とした」――このできごとは個人的にかなり衝撃的だった。ところがあたかもその一件が功を奏し、枷が外れてもろとも身軽になったかのように、直後の16話「失恋」以降、作品はめざましい飛躍をとげる。挿入される過去回想が情動を積みあげ、かろやかでスナップの効いたカッティングが躍動感あふれる活劇をもたらす、あの透明で祝祭性にみちた愛すべき『ハイキュー!!』の体感が帰ってきた――と、そくざに直感した。カットの呼吸、作画の緩急とにかくもみごとで(ラスト、勝負の瞬間ばかり田中龍之介の腕が帯びる「鬼気」――この一点に賭けようという制作陣のスタンスが本挿話のほかならない強度になっている)、タイトル「失恋」のうつくしい回収のありようともども、ひたすら泣かされてしまった回。まさに名誉挽回の一話という印象で、その役目を田中のド根性がになった意味も考えてしまう。直後の音駒回など以降も目を見張る挿話はいくつかあったが、未曾有の病禍という現状もあいまって、あらためてアニメ制作とはバレーよろしい「チーム戦」なのだということを思い知らされた点で、この挿話はとりわけ象徴的だった。

 


日本沈没2020』第6話「コノセカイノオワリ」
脚本:吉高寿男 絵コンテ・演出・作画監督:本間晃


今年の「裏ベスト」。これも粗削りながら以前に記事を出したので全体的な話は割愛するが(やはり大したこと書いてなかった気がするので、スッと消える可能性がある)本年度いちばんの問題作はやはりこれだろう。監督・湯浅政明のアニメーションへの(ある種保守的ともいえる)サイケデリックでアブナイ愛と、どんどん苛烈をきわめてゆく現実世界との折り合わせがどうしようもなくいびつなかたちで達成され錬成されてしまった、大失敗作にして屈指の大傑作――こと本作においてこの両者は矛盾しない。混乱そのものをかたどった狂気の語りのうちに(「日本沈没」を謳っていながら)アメリカ映画の匂いがたちこめ、アニメーションそのものの柔らかさが別様の「記憶」をもかしこで呼びさましてしまい、結果として作品は混迷をきわめた現在時の寓喩そのものとも「なってしまった」。この異形の怪作がいまや「叩いてもいい作品」扱いを受けているというのはなにかの間違いなのではないかと思う――正当な再評価を望む。
作品を象徴する挿話ということでは圧倒的な破壊と震災の記憶がかさなりあった1話や(絵コンテ・演出=和田直也の仕事は特筆に値する)、どこまでも「死が軽く」ほとんど哄笑的ですらあった衝撃のラストシーンが話題になった2話、あるいはそのネガともいえる鎮魂の静謐さをたたえた8話が妥当だと思うが、作中屈指のエモーションによって尋常ならざる強度を獲得していた6話がやはり忘れられず、選出とした。絵コンテ・演出は本間晃、さながらアルドリッチと『映画クレしん』の奇跡的融合とでもいうべき「決死そのもの」な人物たちのドラマとカタストロフの多面的爆発のありようにただただ呆然。作品全体がたたえていた暴力の渇き・軽さと、相反するような熱情のたかまりが最高度で達成された間違いなく本作のベストエピソードだ。どこまでもドライな直線路での銃撃シーンや「彼岸」という主題の処理にもうなるが、やはりあの「グッドラック」の余韻がいつまでも忘れられない。このエモーションをもろとも閑却してしまった劇場再編集版は残念ながら……という感じだったので、ぜひ配信版のほうをみていただければ。

 


妙に収まりの悪い例外を入れるなら素直に『ドロヘドロ』を選出すべきだったかとも思いつつ、どうしても豊作だった秋アニメの印象が強くなってしまったきらいもあり、諸々あって今回はあえて選外(間違ってもMAPPA版『チェンソーマン』への不安がよぎったからとかではない)。ほか印象的だったアニメを挙げると『ダーウィンズゲーム』『邪神ちゃんドロップキック’』『NOBLESSE -ノブレス-』『禍つヴァールハイト』などで、いい感じに「B」の系譜が並ぶ結果に。よって――というのでもないが――上述した一連の作品のいったいどのような部分に惹かれていたのか、いくぶんわかりやすい印象はあると思う(人気漫画原作や二期三期、作家色のつよいものが多くちょっと保守的なきらいはあるけど。その点『ラピスリライツ』のヒットはうれしかった)。惜しむらくはキッズアニメに手をつける余裕がなく(視聴継続していた『プリチャン』までも一旦、視聴を断ってしまった)、やはり抜けは沢山あるだろうなと思うが、そのなかでも偶然みたプチトマト回の衝撃にあわてて『ミュークル』の本放送へ追いつけたのはほんとうに幸いだった。現実はなお混沌としつづけているが、アニメはずっと面白いことをやっている、ので、アニメをみるべきだと思う。来年はやらない。

*1:その後、配信開始とともに以降のエピソードをまとめて浚ったものの、案の定……という感じだった(こういうパターンがままある)。

湯浅政明『日本沈没2020』

Ⅰ.

記憶をかたちにすればどうなるだろう。おおくのひとがおもいうかべるのは、かぎりなく透明にちかい、あわいセピア色の沈殿をうちにとどめた、楕円形のぐんにゃりとしたアメーバ細胞のような形象ではないか。あるいは子どものラクガキのような、パウル・クレーのスケッチのような、やさしく、やわらかい線でえがかれた、夢にも似た手ざわりはだざわりのもの。それゆえに記憶の形象は、ときに細胞分裂めいた生成のイメージから「性」のにおいを発散し、ときに幼児性と関係をむすんで児戯的な、虫を踏みつぶすようにかるく残虐な暴力の噴出をゆるしもする。その暴力性は、彼岸と此岸、人間と異形、ハレとケといった二項に区分された世界の境界をあいまいにとかしていく媒質性とも、ゆるやかにかさなりあう。羊水のなかのような恍惚とノスタルジーのなかで、やがておのれの輪郭もとけだし記憶そのものと混ざりあう。「わたし」は「わたしたち」のなかへ滲みだしすべてがひとつになる。これまで湯浅政明のアニメーションがえがいてきた記憶の形象とは、おそらくそのようなものだった。

 

夜明け告げるルーのうた』以降、震災の記憶と癒着した湯浅アニメーションは、すべてを呑みこんでいくあの津波を念頭に、幻惑的な「水」のエレメントを依代としてえらんだ。それにともない記憶はしぜん「哀悼」の色を帯びはじめる。今年七月にネットフリックスで配信、その「展開の天変地異」と政治性が賛否を呼んだ――というか、おおかた不当な評価をくだされてしまった――、現時点での湯浅の最新作『日本沈没2020』についても、おおまかな状況はかわらない。第一話、日常を一瞬にして地獄へとかえる大地震のおこる直前になりひびく、あのうす気味わるいJアラートの音が不可避に呼びおこさせるのも、やはりあの東日本大震災の記憶だろう。ただしこれまで湯浅作品の署名として認知されてきた、ドラッギーな極彩色や狂ったパースでぐにゃぐにゃうごくサイケデリックなアニメーション、あるいは「水」のような原形質性は、いくぶんなりをひそめている。比較的生硬な印象のつよい小松左京による原作への敬意からだろうか。どうもそれだけではないような気がする。(――以下、ネットフリックス配信版のネタバレ有)

 

旅客機が上空を飛ぶ。そこだけ抜けたように青い空が印象的だ。一話の前半は、平穏そのものをあらわすその余白を全体の基調とし、静謐でのどかな東京の街とひとびとの日常風景が、フィックス・ショット中心の淡々とした編集でかさねられる、おしなべてスタティックで写実的な画面がつづく。そのおりふしで、四者四様ばらばらの場所・状況にいあわせていた主人公一家――陸上の練習にはげんでいた中学生の主人公・歩、自宅でゲームに熱中していたその弟・剛、日本にもどる冒頭の旅客機に乗っていたフィリピン人の母・マリ、オリンピックスタジアムの電工に従事していた父・航一郎――の、人物紹介もかねた情報整理が省略のきいた簡潔な描写でしめされる。やがて異変は起こる。震度4の「余震」を皮切りに、前代未聞の大地震――前述したJアラートの不穏から、直上への高速パン→更衣室の陸上部員たちが「すでに宙に浮いている」暴力的なカットの飛躍が怖気をふるわせる――が、東京の街をおそったのだ。日常が崩壊する。剛は割れた窓ガラスで眼を負傷、父親はゴンドラから降り落とされロープに宙吊り、母親は飛行機からの緊急脱出を余儀なくされ、歩は倒れ落ちてきた更衣室のロッカーにおしつぶされた部員たちを尻目に、恐怖からがら逃げ走ってきてしまう。外はほうぼうで火の手と黒煙がくすぶり、瓦礫同然にまでくだかれた家々が複合レイヤー状の隆起をつくりあげている惨状。いそぎかけつけた歩の家も案の定、かつてのみるかげもなく屋根がひしゃげてつぶれ、ぐしゃぐしゃになっていた。圧しつぶされそうになるほどの悲愴と郷愁のきしみ。そこへ歩のモノローグがかさねられる――「新築の自宅はお父さんが凝りに凝ったこだわりのデザインで、わたしも自慢です。だけど、庭の植木を派手にライトアップしているから、近所で有名になってしまってとても恥ずかしいです」……云々。ところがその言葉は、「いま、その現実に立ちあっている」歩から発せられたものではない。

 

このような、いまみられている風景とは直接には関係のない、文脈をはなれたモノローグが現在場面に「引用」される演出が、作中、おおよそ一話にすくなくとも一回の頻度で反復される。このギミックが、おりにふれて撮影される「集合写真」のモチーフともども、比較的スタティック――ないし「記録」的――だった画面の表面に、うっすらと微温的で、それじたいなにか予感めいた「記憶」の色をぬっていくかのようだ*1。記憶はかつてのやわらかい形象をもたない。アニメーションの変幻もない。かわりに客観を敷き、記録のような生硬さで「撮られた」画面に、かえってアウラのような記憶が薄皮一枚張りついている。だとすればここでの湯浅の判断は、もはや映画性に接近しているのではないか。映画は、カメラ=記録媒体で「記憶を撮る」ものだ。フィックス・ショットと編集主体のしずかな画面組成、平時を横の運動/急場を縦の運動でえがく運動の一貫性*2、そうして情報を逐次かいつまみサスペンスを織りあげる家族四人の群像と、不可避に画面が映画の――とりわけ「物語」への拘泥をみせる古典的なアメリカ映画の――体感を以降も一貫してなぞっているのも、またゆえなきことではないだろう。たがいに安否不明だった一家が、天へのびたライトアップの光をたよりに再結集をはたすみごとな大団円をよそに、以降、物語はそれじたい異様なかるさで踊り狂い、ありうべき結束を完膚なきまでに破砕しながら驀進する――その奥底に「これはいったいだれの、どこからきた記憶なのか?」という問いをたえず放散しながら。

 

Ⅱ.

客観が主観を帯びてしずかに発光している。それが本作のあらわす記憶のすがただとすれば、物語ぜんたいの組成そのものも客観に主観が「まざった」、いびつなものとならざるをえない*3。結論からいえばそれは、アレゴリー的になる。現実の周到な再現をもくろむリアリズムにはんし、「AになぞらえてBをいう」二重性にたえず裏打ちされたアレゴリーのばあい、展開の刻々は蓋然性=「もっともらしさ」ではなく魔術的因果――湯浅的なサイケのにおいもする語彙だ――によりつなぎあわされるから、しばしば細部が奇異な偶然やご都合主義によって「ほころぶ」。すくなくない視聴者から「リアリティがない」と不興を買った一因もここに存するだろう。津波のさなか海へ飛び込み、あまつさえ溺れた子供を救いに戻ることまでする母親の行動は、たとえ「現実的」という意味で「もっともらしく」はなくとも、「元水泳選手で、水泳が得意なこと」「いかなる場合も子供を優先する、自己犠牲的な正義感にみちた人物であること」という役柄の説明としては充分で、エピローグで人知れず希望のエンブレムと化すこの子供の生存が以降、確認されればすべてはこと足りるのだ(だからこそ「そこからどのように生還したか」は、サスペンスをあわせのんだ飛躍的なカットの転換によって周到に伏せられてもいた――そうしてそういった随所の判断が画面のおりふしに映画的ともいえる軽さを刻印しているのだが)。主人公たちのもとに「舞い降り」、やがては日本全土を救うことにもなるユーチューバー「カイト」の天使的存在、および彼の「持っている」=都合のいい偶然が乱打される顛末なども、あくまで「物語じたい」を立ちあげるための諸政策でしかない――この割り切った状況判断がみごとだ。そのため物語は(伝統的なアレゴリー物語がそうであったように)いくぶんかの神秘性をまとうことにもなる。その傍証となるのが、物語の中腹にすえられた、未曾有の危機における生存という本筋とはおよそ無縁にもみえる、ほとんどカルトめいたスピリチュアルコミュニティ「シャンシティ」を一家がおとずれ幾日を過ごすエピソードだろう。

 

伝統的なアレゴリー固執する物語形式があった。主人公の、魔術的因果を介した成長過程をえがく「通過儀礼」がそれだ。仲間を見捨て逃げてきた「後ろめたさそのもの」のように発現し、歩を終始さいなむことになる脚の傷などもアレゴリー的な道具立ての好例だといえるが、いっけん奇異におもえる一連の物語が刺繍するのは、そうした傷からの恢復と成長の過程なのだった。前半の流れを整理しよう――大災害で家をうしなった一家は、いったんは高所(神社の境内)に避難したが、やがて増水によってその場も立ちのきを余儀なくされた。ほかの難民たちとは途中でわかれ、歩もあこがれる陸上部の(いまは引きこもりになってしまった)先輩・春生と、近所に住むお姉さんがわりの七海をふくめた六人でしばらくは行動することになった。水や食糧を道すがら得つつ、順当に西へ西へとすすんでいく一同。ところが不慮の事故によって、一家の中心だった父親がたちまちのうちに「消し飛ぶ」。たてつづけに七海もうしない、かわりに前述したユーチューバー・カイトと、老舗スーパーにひとり篭城する老人・国生と道中、合流する。やがて大規模な地殻変動のあおりをうけ、仮のやどりだったスーパーを手ばなした一同が命からがら逃げたどりついたさきが、くだんのスピリチュアルコミュニティ「シャンシティ」だった……これがだいたい四話までの顛末。

 

シャンシティに入門し最初に影響をこうむるのは春生だ。これまではろくに言葉すら発さなかった春生だったが、到着直後にまかなわれたカレーを食べたとき、ふいに眼前で死んだ母の記憶が去来、やむにやまれず「涙を流す」。この反応が「浄化」として視聴者にも第一に了解される。のちも春生は、日々の労働とレイヴパーティーでのDJなどを介しすこしずつ自己を取り戻し、ついには「走る」ことまでを恢復するにおよぶ。この過程が母娘の関係を「相補」する。父のショッキングな死に直面しても泣くことすらできず、衝突をくりかえしていた歩と母・マリは、コミュニティでのおだやかな日々と、カイトやユーゴ出身の大道芸人・ダニエルといった人物との交流を経、ゆるやかな和解へといたる――その過程で五話ラスト、作中屈指の感動的なロングショットももとめられた。夕暮れをバックに母親が娘の髪(むろんこれも時の流れをあらわす指標)を切ってやり、そこで父の死をようやく現実のそれとして認識、こらえきれず、ふたりそろって涙をながす。未曾有の災害で家をおわれ、大黒柱をもうしなった歩たち一行が、その喪失を受容し乗り越えていくまでの、スピリチュアリズムを介したいわば「セラピー」の過程――そのようにみるならば、ここまでの描写はいずれも過不足ないものだ。

 

さらに物語が後半になると、母親が隠しもっていたハンデ=ペースメーカーの存在と、その「余命」までもがあきらかになり、覚悟をもとめられる一連が、八話――姉弟ふたりで海上を漂流する、作中もっとも静謐で幻想的ともいえるおだやかな時間の流れる挿話によってあらわされる(呼応するように視聴者もまた、物語がすすむにつれ、人物たちのさだめられた死や試練にむけた覚悟性にすこしずつ姿勢をただされてゆく――そのうえで「フリ」による予感の形成と、その脱臼というほとんどコントのような一連もまた他方で形成されるのだが)。非常時にも駄々をこね母親につっかかり、春生に恋慕し、七海には嫉妬までする「ガキ」だった歩も、母親と和解して父の死を受容、その母親のこんどはきたるべき死をむかえいれるべく、ふたりきりになった弟を相手に急ピッチで大人になることを要求される(ひるがえって災禍のなかでの行脚が、ときにピクニックのような温和さをかもしていたのは、父という絶対的な中心の存在が、歩たちが子どもでいつづけることを許容したからだったともわかる)。作品がえがくのは一貫して歩の「成長」、ひいては「通過儀礼」の過渡なのだった。とうぜんシャーマニズムや、大麻と労働を介した自然回帰、ないし身体主義などの「原初性」が焦点になったのもこれと同時的だろう(むろん、カルトすれすれだ――とはいえ讃美や糾弾といった価値判断は周到に留保されている。なぜか――湯浅にとってこの「生死の境が溶ける」スピリチュアルな道具立ては、ほかならないアニメーションそのものの喩でもあったからだろう。そこに作り手のジレンマがある)。大災害によって「物語」が機能不全になった日本で、歩たちの道程は原初の古典的なアレゴリー物語への回帰を余儀なくされたわけだ。

 

Ⅲ.

それにしても、だ――それにしても、おりふしに作品がかいまみせる暴力の野蛮さは、トビー・フーパー的とでもいうのかなんというか、ちょっと常軌を逸してしまっている。だれもが度肝を抜かれるのはやはり二話、父親のあっけなさすぎる死の場面だろう。ついさきほどまで、卓越したサバイバル感覚で一家からの絶対の信頼をよせていた一家の大黒柱が、娘にねだられて食糧となる山芋を掘っているさなか、およそ災害そのものとはズレた位置にあった不発弾という要因によって、こう言ってよければ――「あまりにもしょうもない」死にかたで絶命する*4。ダメ押しのように黒煙が地下から吹きあがり、花火のような喧騒に砂礫が舞い血糊は飛び手首がころげ落ち、ただぼうぜんとする家族一同の真上から、異様な高揚感をともないつつ降りそそぐ*5。物語の最初で最大ともいえる悲劇が、それとは真逆の嘲笑性、あるいは興奮でいろどられている。過激なまでの死の「軽薄さ」そのものが「かなしい」(牛尾憲輔のスコアのすばらしさも、むろん特筆にあたいする)。次の挿話でまたしても無慈悲に、ちょうど用を足しにいく途中という、ほとんどコメディすれすれの因果で即物的に死ぬ七海についても同様だ。

 

笑いになだれこむ寸前の、異様なズレと「混ざり」の感覚が、ありうべき共感から視聴者を切りはなし孤立させる、そのありようがすでに暴力的だ。これが「語り」そのものに転写されると、ほとんどシチュエーション・コメディのようなテンポ感だけをのこし、物語そのものが地殻変動よろしく「ズレ」、「たわみ」、「うねる」驚愕を形成するようにもなる。ここも賛否をまきおこした要因のひとつだろう。七話――崩壊したシャンシティをあとにした一家は、フェリーをつかい海外へ脱出する国策を聞きつけ、港へむかう。陸上の選手特権で歩だけが渡航をゆるされたが、ここで歩は母のかかえていたハンデにようやく気づき、家族のいる場所こそがじぶんの居場所だから――これが歩のゆいいつもちあわせた「思想」だ――といって乗船を拒絶する。この「のるか、そるか」のやり取りが、この挿話では以降もたたみかけられる。極右団体には混血を理由に乗船を拒否された。ほどなく伝統的保守ともいえる海の男にひろわれるが、爆発炎上した極右団体のメガフロートからあおりをうけ、船はたちまち難波した。救命ボートによる離脱をこころみるが、身勝手な船員のひとりがとつぜん発砲――「拳銃」がでてくる時点ですでに状況はズレをはらみ、もはや誤作動的だ――、どうにか海へでるも一同はちりぢりになってしまう。各シチュエーションの時間配分は末尾へちかづくにつれ徐々に縮減、刻々は一気呵成のカット転換で飛躍をもち、結果、あれよあれよというまに状況は変転していく。呼吸はもはやかぎりなくコメディのそれだ。それが最終的に、「ボートに揺られ、気がついたら眼前にはビルの屋上、事後的に日本の沈没を知る」――という、黒沢清『カリスマ』ラストのような黙示録的飛躍を呼びこむことにもなる。

 

鎮魂の予感にみちたしずかな雰囲気と無時間のメランコリーをうつくしく刺繍しつつも、サメ、幽霊船、光かがやく海に父親の幻影と、ファンタスマゴリアめいた夢幻が彼岸からいくつもあらわれては消える八話についても、事態はかわらない。さらには母親のしずかな、尊厳ある死をえがいた直後に、九話――母親と同様の心臓マッサージと人工呼吸のさなか、「うっかり生き延びてしまった」とでもいうかのように息を吹きかえす潜水士・小野寺のくだり(「酸素ボンベに穴が開いていた」というそもそもの因果がコントのようだ)。あるいは直後、まるで死ねなかった小野寺のかわりのように、ランナーズ・ハイのさなか波にさらわれる春生の最期。とうぜんズレの重畳はお笑いの常套でもあったが、死に隣接する海の風景――そういえばこのあたりは、作中かすかに「水」の主題がほのかおる挿話でもあった――が、北野武作品の記憶を呼びこんでしまったのか。いずれにせよただ波のように押しよせては引いていく個々のできごとは、視聴者のうちに定着されるはずの共感や感傷ごとうばいさって、ひたすらに流れていくだけだ。春生をさらっていった波のように、あるいは、音楽に発語を乗せグルーヴを獲得していく、あのサイファーのように。物語の屋台骨がむきだしの、「すすむためだけにすすむ」かのような構造性にひたすら慄然とする(「物語とはじつは廃墟でしかない」ことをあばきだしているのだろうか*6)。けっきょく視聴者のもとには、瞬間瞬間をのみこんでいく「だけの」、興奮にみちたかろやかな時間の体感だけがのこる――この暴力的な「語り」がもたらす畏怖こそを真に汲むべきだろう。

 

Ⅳ.

刻々ズレを惹起しながら狂奔する、それじたい湯浅アニメーション的ともいえる――媒質から内奥への、ここでも「ズレ」があるが――ゆがんだ物語の形象は、とうぜん「国家の崩壊」=「家族の崩壊」という二重の脱中心性にも依拠している。最初に父親が「象徴的に」死ぬ。以降は各局面で、いちどは定着したとみえた寓居や拠り所となる人物=「中心」をほどなく喪失しゆく一連をいくども反復し、家族は物語ともども漂泊を余儀なくされる(そうかんがえると前述した小野寺のいっけん誤作動的ともいえる蘇生と直後の春生の死は、不具ゆえに父性=中心性を剥奪されている小野寺に比し、自己役割をとりもどした春生が結果的に「中心化」した事実の、事後的な裏付けでもあったのかもしれない)。中心の不在という、きわめて日本的な事態。天皇制に依拠する日本の脱中心性をかつて喝破したのはバルトだったが、原作者の小松左京が、その作家生涯をつうじ天皇制の描出に終始腐心していたこともまた周知なはずだ*7。原作からは潜水士・小野寺を「寝たきりの身体(=アーカイブ)」として招聘し、例の不発弾ともども国土という「国家の身体」に埋没した記憶=物語を掘り起こすよううながす物語の顛末も、このことと同時的だろう。くわえて作品ぜんたいが物語を隆起させるために、アメリカ(映画)という中心を呼びこんでしまったこともまた示唆的だ。冒頭、旅客機不時着に想起される『ハドソン川の奇跡』の記憶といい(あるいはシャンシティにおける「死者との対話」の『ヒアアフター』性といい?)、みるだに『グラン・トリノ』の頃のイーストウッドを模しているとしかおもえない老人・国夫のキャラクターといい、かれを媒介に繰り広げられるめくるめく活劇場面のすばらしさ(六話――絵コンテ・演出、本間晃*8 )といい、保守のアイコンにしてもはや「アメリカ(映画)そのもの」ともいえるクリント・イーストウッド作品の記憶が本作にひしめいているのも、おそらく偶然ではない。

 

だからこそ左派が本作の終局にしめされる、東京オリンピックエクスプロイテーション的側面をみて、即座に糾弾にはしった気持ちもわからなくはない。なるほど一話をなぞるように訥々とした編集で乱打される「かつて、あった」日本の風景のかずかずと、終幕に「書き添えられる」歩のモノローグには、あからさまに愛国的なにおいがこびりついているようにもおもえる――ただしロトスコープの多用によってキャラクターの表情をはじめとする個々の表象は「理想化」をまぬかれ、かろうじて安易な感傷への堕落はおさえられているが*9。ところで、最終話の「時間差で彼岸から届くメール」「クラウドから噴出する記憶たち」というギミックは、あくまで技術的・即物的なもの――すなわち「客観性」にやはり終始している(そういえば、クリスマスの夜に死者からのメッセージがライトアップのかたちでとどく『きみと、波にのれたら』の終盤も、これと同様の構造をもっていた)。記録性に癒着する本作特有の記憶性についてはすでにのべたとおり。そこへ冒頭紹介した歩のそれと同様の、すでにここにはいないひとたちのモノローグがつぎつぎかさねられていく。とうぜんこれは道中、さまざまな場面・人物・モノにあてがわれていたのとまったくおなじものだ*10アーカイブ保存されていた映像をかいし、ようやくそれらモノローグの出自が――というより、「それらに出自があったこと」「かつ、それらは作品ぜんたいに「配剤」されていたこと」が――あきらかになる。ひるがえって、作品ぜんたいが周到にはりめぐらしていた人物描写の断片性と、その個々の相補性・照応性がこうした「配剤」によって綿密に織られたものだったことを想起すれば、ショットの「断片性」を基本単位とする映画性ともども、断片への裁断とその再布置が、作品(の、とりわけ記憶装置としての側面)をうごかす諸力だったことにもおもいあたるはずだ*11

 

この配剤性によって本作は、崩壊の一途をたどる廃墟然とした国家=物語のうえで、アニメーションと映画を、原初性と現在性を、そうして記憶と記録をスリリングに「接いだ」。作中、「金接ぎ」という印象的なモチーフもあらわれていたが、「接ぐこと」の主題は、母のペースメーカーから剛のピアス/歩の義足へと継承されゆくサイボーグ的な「継ぎ接ぎ」の身体+機械に、ひいては多国籍+障碍の多重マイノリティ性にも、幾重にかかって発現していた。のみならず当の物語そのものが、ジャンル不定性や寓話の不全性(不全の寓話性)でもつれた「継ぎ接ぎ」の構築物でもあったはず。従来、湯浅の署名だったやわらかなアニメーション性は、生硬な映画性ないし物語と癒着することで、記憶や生死のあわいをとかす原形質性それじたいを「語り」、アニメーションそのもののようにうねり狂う「アニメーションの物語」をつむぎはじめた。その観点から湯浅は、二重の意味で「アニメーションのアレゴリー作家」だともいえる。そうしてこの物語もまたアニメーションのアレゴリーだったとするなら、もうひとつのありうべき「意味」をおもいおこすべきだ。「クラウド保存されていたデータにより復旧が叶った」エピソードで喫緊のものといえば、昨年の京都アニメーション放火事件の後日談がそれだった。本作が真に隣接しているのは(あるいは、隣接すべきなのは)、ほんとうは震災でもオリンピックでもなく、むしろそちらのほうだったのではないか――そう、第一話、牛尾憲輔のどこか鎮魂めいたひびきすらもった劇伴の鳴るなかを、ときに印象ぶかい「脚」などのクロースアップも差しはさみながら日常風景を点綴、やがて圧倒的な災禍がすべてを呑みこんでいく一連の場面で不可避に呼び寄せられた記憶は、ほかならないあの京都アニメーション(事件)のものでもあった*12

*1:やはり不可避にベンヤミンをおもってしまう――《過去がその光を現在に投射するのでも、また現在が過去にその光を投げかけるのでもない。そうではなく形象のなかでこそ、かつてあったものはこの今と閃光のごとく一瞬に出会い、ひとつの状況を作り上げるのである。言い替えれば、形象は静止状態の弁証法である。なぜならば、現在が過去に対して持つ関係は、純粋に時間的・連続的なものであるが、かつてあったものがこの今に対して持つ関係は弁証法的だからである》(『パサージュ論 第3巻』P.184)。

*2:「下に降りる」運動をおこなった人間は例外なく死に(地面を掘りすすんで不発弾を引きあてた父親、用を足すために下方に降りて毒ガスを吸引、即死する七海。あるいは教団の最頂上で神意をつかさどっていた夫婦が、死の受容とともに建物もろとも崩落していく一連)、逆に「上に昇る」運動は魂の上昇――剛がモールス信号で天上にメッセージを送りつづけるそこは、とうぜん彼岸をしめす――ひいては「崇高」としてあらわされる(神殿の直上から一家を見送る国夫や、水面へむけて浮上しゆく母親の最期、気球に乗って命運をつなぐカイト。そうして水位上昇から領土の隆起に至り、歩の「飛翔」をつうじて復興が視覚化されるクライマックス)。とうぜんこれらの視覚的明瞭性は、ぜったいに運動の快楽を捨象しない「映画作家」湯浅の卓越した判断だと単純に言いきることもできるだろう(この点では湯浅はやはり「保守的」だ)。湯浅作品がアニメーションの昂揚を過不足なく発散すると同時にどこまでも「映画」然とした魅力をたたえているのは、たとえばこうした運動の一貫性による。

*3:いったんは一家を車で拾うも、七海に関係をせまったことで放逐された退廃主義的な男の目線からえがかれる奇異な格闘シーンや、かれからうばったメガネを七海がつけかえてやったときの「眼鏡越し」に鮮明になる春生の視界、あるいは国生のいとなむスーパーの棚を物色する一行の一人称視点などといった「主観ショット」が演出の要となり、かつ、七海と春生のあいだになにかを嗅ぎ取り、それとない不快をあらわにする――そうして、そのために七海を死にいたらしめることにもなった――歩の「認識の相違」を、言葉数はすくなくとも三すくみの構図でしめした比較的「湯浅色」がつよいようにもおもえた三話などをみれば、「主観性」の発露(と、その罪障)についてもうなずけるだろう。

*4:二話はあたかも彼岸から声をかけているかのような、父親のすがたばかりはみえないままに、その声だけがとおく聞こえてくるカット――最初は川下りをする際、崖の下から弟・剛にむけてはやく飛びこむようにと声がかけられる場面、もうひとつは暴れ狂うイノシシを捕まえたあと、身をあんじて息を呑む一家をよそに、画面向こうから「獲ったどー!」と快哉を叫び、その生存をつたえる場面――が道中、二度反復され、そのことによって「死の予感」をうっすらたたえてもいた(とはいえ、そこからみちびかれた死は、物語のあるべき道からいちじるしく逸脱してしまっている……)。

*5:まさしく花火のシーンだったが、『きみと、波にのれたら』の序盤、主人公・ひな子と港の「出逢い」をえがいたシーンも、これと同様の(ほとんど哄笑的ともいえる)カオティックな昂揚感をたたえていたことも想起される。自宅マンションで火災が起こり、どうしようもなく上階へ逃げたひな子が、救助のためにクレーンで登ってきた消防士の港と対面する瞬間、立てつづけに花火が上がって、ドラマティックな瞬間がにわかに演出される。とはいえそこは火災現場なわけで、その「出逢い」はなにとなれば不謹慎でもある――ところが観客は、恋愛感情の昂揚に見立てられた上昇運動の重畳と、危機的なはずの状況とかさねあわせられた(筋違いの)情動にみごと「乗せられて」、すっかり恍惚してしまう。だからここで得られるいわくいいがたい感覚は、そのまま「映画的な昂奮」と形容するべきなのかもしれない。

*6:とうぜん「廃墟」もベンヤミン語だ。《事物の世界において廃墟であるもの、それが、思考[想念]の世界におけるアレゴリーにほかならない。バロックが廃墟に傾倒するのはそのためである》(『ドイツ悲劇の根源 下』P.51)《瓦礫のなかに毀れて散らばっているものは、きわめて意味のある破片、断片である。それはバロックにおける創作の、最も高貴な素材である。というのも、目標を正確に思い描かぬままにひたすら断片を積み上げていくこと、および、奇跡をたえず待望しつつ繰り返しを高まりと見なすことは、さまざまなバロック文学作品に共通する点だからである》(同、P.52)。

*7:小松左京天皇表象については、野阿梓「ジャパネスクSF試論」(巽孝之編『日本SF論争史』所収)が簡潔でわかりやすい――参照のこと。

*8:荒いコマ送りのような作画でつむがれるアクションの連続、それぞれの人物の――思想や立場をもはや問わない――「ナマの」生きざま、直線路でのかわいた一瞬の銃撃戦、アルドリッチ特攻大作戦』の終盤すら想起させるカタストロフに脱出劇と、どこを切っても活劇の味がする本作のベストエピソードだった(最良の『映画クレしん』の記憶もいくつかよぎった)。とりわけあの「グッドラック」の瞬間に結実する、ひたすらアメリカ映画的としかいいようのない催涙性たるや。同時に老人が発する「こっち側には来るな」という一語、あるいはラストカット――「車線をまたぎこえるカメラ」といい、例のごとく彼岸と此岸の境界をはさんだ差し引きが周到に張りめぐらされている点も注目にあたいする。

*9:じっさいには額面どおりの内容だけでなく、視聴者を共感一色でそめあげる、いわば「感情のファシズム」が各場面でどのように回避されているかが真に吟味されるべきだろう。たとえばネットフリックスで製作された前作『DEVILMAN crybaby』の弱点もおそらくここにあった。九話、悪魔にまつわる風聞におどらされる大衆を露悪的にえがき、かれらと相対するヒロイン・美樹の絶対的で聖母のような善性を強調するあまり、直前まで作品が基軸としていた哄笑的な暴力性が感傷主体の象徴性に呑まれてしまう瞬間があった(呼応するように、美樹がネット上で「論説」する場面には、絶望的なまでの停滞が画面に刻まれてしまってもいた)。ほかの仕事でも一貫して衆愚描写への拘泥をみせている大河内一楼自身の問題意識がまねいたものだったのだろうが――その点、本作の脚本・吉高寿男のバランス感覚(およびそれをみごと掌握、距離化してみせた各話レイアウトや演出の妙)は相応に評価されるべきだともおもう。

*10:とりわけ八話、母親の――すでに「モノ」と化した――屍体のうえに生前のモノローグがかさねられる場面のベンヤミン性はどうだったろう。《死によって精神が霊として自由になると、身体もまたいまはじめて、己れの権利を最大限に達成することになる。というのも、自明のことながら、肉体のアレゴリー化は屍体というありようにおいてのみ、徹底的に断行されうるからである。そして、バロック悲劇の登場人物が死ぬのも、ひとえにそのようにして、つまり屍体となって、アレゴリー的な故郷に入るためなのだ。不滅のものとなるためにではなく、屍体となるために、彼らは滅びる》(『ドイツ悲劇の根源 下』P.139)。あたかも作品後半の展開をそっくりなぞるかのような文章でもある。

*11:その意味では本場面は、たんに混乱した現代日本アレゴリーというより、むしろ作品ぜんたいのアレゴリーととられるべきかもしれない(ちなみに、伏線やマクガフィンの配剤を度外視した野蛮で「燃料投下」めいた情報の大洪水によって観客を殴打、破壊的な感動を呼びこむラストシークエンスの手法については、初監督作『マインド・ゲーム』以来、『夜明け告げるルーのうた』などでもみられた湯浅の常套手段でもあった)。そうして、作品の刺繍してきたアレゴリーはここにいたって、諸断片のモザイク/コラージュ的な配剤・布置により、事物へ理念としての意味の再付与をおこなうベンヤミンアレゴリーへの「跳躍」をはかっているようにもみえる――この点については、すでに随所に示唆したとおりだ。

*12:追記――11月13日に劇場公開された『日本沈没2020 劇場編集版 ‐シズマヌキボウ‐』では、ここで触れたような物語のめくるめく天変地異や随所に噴出するホラー的な予兆に充ちた細部、上昇と下降の一貫した運動性、アメリカ映画的な熱狂、人物の周到な配剤性、思想性や感傷からの倫理的な距離化、そうして破壊の風景にかさねあわされた牛尾憲輔の劇伴によって彩られていた記憶とコラージュの主題などがごっそり抜け落ち、たんに情報を提示するにとどまる平坦なカットの集積にとどまってしまっていた。これだから総集編は難しい――劇場版を観て困惑してしまった方も、ぜひ(劇場公開版以上に)映画的な魅力に富んだ配信版のほうに当たっていただければとおもう。

ID:INVADED イド:インヴェイデッド

 

 

あおきえい監督/舞城王太郎脚本によるオリジナルアニメ『ID:INVADED イド:インヴェイデッド』が先日最終回をむかえた。出色の出来だったとおもう。今期では、殺伐としたヴィジュアルとは裏腹(?)の軽妙さとかわいらしさがウリの『ドロヘドロ』と並び、とりわけ印象にのこる一本となった。シリーズ構成と全話脚本を手がけた舞城王太郎の起用が第一の勝因だろう。舞城らしい「メタ好み」およびSF的な奇想、そして(これはかなりひさびさにおもえるが)ミステリ的な意匠がふんだんにちりばめられた、先の読めない物語――意外と『ディスコ探偵水曜日』あたりに感触が似ているのではないか――がとにかく魅力。とりわけ各話、複数の事件にまたがりながら適切な情報を小出しにしつつ、後半でそれらを展開あるいは伏線として回収していく、怒涛の情報量を巧みにさばくおよそ初心とはおもえない手腕には目を見張るものがあった。ばらばらの断片的な挿話――「ばらばらの世界」をえがく第一話の冒頭からすでに「断片性」は印象づけられていたが――が連続的に構築される媒体の性質に、作り手はとにかく意識的なのだった。ゆえに各挿話/事件が水平的にならべられていき、中心にうがたれた大きなひとつの「穴」としての「謎」を徐々に浮き彫りにしていくかのような、綿密でメトニミカルな話法にいくどもうならされることになった。最終決戦が物語冒頭に合流して「円環」をえがくラストにいたるまで、これは完璧だったはずだ。むろんそれらを精確に「映像での語り」へと翻案した監督ら主要スタッフ陣の尽力についても、特筆に値する。

 

タイトルにも冠された異空間「イド」の設定がまず白眉だ。舞台は近未来の日本。多発する連続殺人事件解決のため発足した特殊組織「蔵」では、犯行現場に残された殺意の残留思念=「思念粒子」を蒐集し、その無意識=「内面から」犯人を特定するシステムが開発されていた。この「思念粒子」から生成された、犯罪者の精神世界を模した抽象空間が「イド」だ。イド内には殺人者の記憶の中の人物や風景がひしめき、内面化された「ルール」そのものが暗に具現化されてもいる(たとえば連続殺人犯「穴開き」のイドは、すべての人や空間が「ばらばら」になって浮遊するパズルのような空間、といった――このヴィジュアル力にまずは惹きつけられる)。元警官にして、現在は自身も連続殺人犯として収監される主人公・鳴瓢秋人は、円環状のコックピット「ミヅハノメ」を介してこのイド世界へとダイブし、「名探偵」酒井戸となって犯罪者たちの無意識の痕跡を回収、イド内で起こっている「事件」を――イドの中には「カエル」と呼ばれる少女の死体が常時現出、彼女がイド内で起こり、「名探偵」が解決せねばならない事件について指標的・象徴的な役割をはたす――解決する役目をになう。「名探偵」には「自身も連続殺人犯でなければならない」という適性が必要で、ゆえに自身、娘を殺した連続殺人犯「対マン」を手にかけたことのある鳴瓢が選出されていたのだった(ただし「イメージの世界」たるイド内にダイブすると、「名探偵」であることと事件を解決しなければならないこと以外、現実世界での記憶はすっかり失われ、いわば「純=名探偵」というか「メタ名探偵」化を余儀なくされる)。この鳴瓢=酒井戸の「推理」を、外部から観察・分析する「蔵」の下部組織「井戸端」がさらに媒介、これを現実世界での実際の犯人逮捕へと連絡させていく。この一連のシステムにより「連続殺人犯の連続」を解明して断ち切り、やがては殺人犯たちを無意識下であやつる黒幕「ジョン・ウォーカー」の特定と逮捕へとつなげていくのが目下かれらの目的となる。

 

この「夢」とも並称されるイド世界と、現実世界との階層をなした照応――おそらくは、フィリップ・K・ディックや『インセプション』あたりを参考にしたのだろう。あるいは、サブカル的な映像作品の記憶もまた「断片」的にコラージュされているといえるかもしれない。『暗闇の中で子供』いらい愛好がうかがわれる『羊たちの沈黙』的なディティールもあった――こそが、主要なサスペンスを織りなしていくことになる。興味ぶかいのはこの一連のシステムが、本作の表現形式=「アニメーションそのもの」への自己言及にすらもみえることだろう。言うまでもないことだが、アニメーション作品において画面上に「描き起こされる」ものは、風景であれ人物であれ、みな本性的に記号――あるいは「イメージ」――でしかない(たとえばアニメにえがかれた「海」は「現実の海」ではなく、あくまでも理想化や省略を暗にふくんだ「海のイメージ」にしかなりえない)。つまり、作中の表現を借りれば――「すべてに意味がある」。凶悪犯罪者の無意識的な内面を抽出し、再形成されたイドのアレゴリカルな「犯罪空間」は、まさに「アニメーションそのもの」の世界像ともそっくりかさなりあう。これがまずは発明だった。

 

そこへさらに「名探偵」による推理=「批評」というメタが介在していく。雑然とちりばめられた種々の記号をとりあつめ、明晰な論理の筋が一本とおるようにそれらを再構成し、因果をたどって「犯人」への道を探りあてる――換言すれば、記号のつらなりのうちに「意味」をみいだすのが「名探偵」の役目だろう*1。そうすると「アニメそのもののような」イド空間内での「名探偵」酒井戸の視線は、「このアニメそのものを観る」視聴者の視線とも不可避に相似形をなすことになる。画面上に配置された記号=情報は、読み取られるべきロジックを潜在的に内包した徴候的なものとなっていき、しぜんサスペンスと視聴者の注意力をたかめる相互循環を生む(むろんそれを支えているのは、情報コントロールのみごとなレイアウト処理に代表される「画」の精度だといっていい――あとで具体例を挙げる)。この展開にはどういう意味があるのか、この画面がまとう違和感はなにか、いま起きている事態はなんなのか――そうした画面上に生起する「謎」が視聴体験をぐいぐい牽引していく。いわば作品との「共犯関係」。視聴者をも名探偵=批評家にしてしまうみごとなメタ構造だ。

 

「イド」というネーミングには、第一話での言及を参照すれば「井戸」「異土」そして精神分析の分野で「超自我」を指す「イド」との三重の語呂合わせがふくまれているという。「意味」の複数性が前提されている――くわえて物語が後半におよぶと、「胡蝶の夢」めいた「イドの中のイド」の幻惑が、世界と自己の同一性=identityの問題をも惹起していくようにもみえる。「イド」というひとつの記号の持つ意味がしだいに複数化していく「横ずれ」の感覚――これもまた、アニメーション的なメタモルフォーゼの昂揚に酷似しているのだった。顕著なのは「穴」のモチーフだろう。第一話で初登場したのち徐々に存在感をましていき、やがては「名探偵」のひとりともなる連続殺人犯「穴開き」――自己自身の頭部にドリルで穴を開け、それをなぞるように他者の頭に穴を開け殺害することから、この名がついた――こと、富久田保津が喚起する「穴」のイメージが、少しずつ意味を変えながら作品全体に敷衍・蔓延されていく驚異。たとえば「穴」にはひとつ、こういう疑問が不可分だろう――頭部にうがたれた風穴の側面は、はたして「内側」に属するのか、「外側」に属するのか。「図か、地か」という言い方のほうが適当かもしれない。「井戸」および「穴」そのものの形状――「環」からしてすでに明白だったが、「連続自殺教唆犯」鳴瓢を媒介した、連続殺人犯をとりまく「自殺=自己充足」の問題系にしても、そして「裏の裏は表だった」衝撃的な「イドの中のイド」の存在にしても、作中にはウロボロスメビウスを想起させる「円環」のイメージが、もとより充満しているのだった。

 

イド世界そのものが好例だろう――三話「花火師」のイドの円形、もっとも顕著な例といえる六話の列車のイド、そして鳴瓢のイドを支配していた「円周率」のキーワード。さらに叙述トリックめいた意匠が凝らされた四話などでは、まさに視聴者の「認識の穴」すらも暴露されてしまった。そうしてこの「認識の穴」は、頭に穴をあけられた=「脳の一部を欠損した」人物たち――富久田、もうひとりの主人公ともいうべきキャラクター・本堂町小春、そして連続殺人犯「墓掘り」――のもつ「認知」の異常ともまた重複する。それは明確に「欠損」なのだが(たとえば「墓掘り」にとっては、それが本堂町による事件解決の鍵となってしまう)、他方べつの場面では一種のアドバンテージとしても機能しうる(十話終盤、その穴がもたらした「エラー」が原因で事件をひとつ「解決してしまう」名探偵・穴井戸の例。そして十二話で明らかになる本堂町の――もはや催涙的ですらあった――富久田の欠損と相補関係を織りなす欠陥)。そうするとこの「穴」は結局のところ欠損なのかギフテットなのか、「無い」のか、あるいは「無が在る」のか、もはや判断がつかなくなる(ドーナツの穴をめぐる哲学的問題を想起すればいい)。いわばこの「穴」が、有/無の別が「併せ呑まれた」一種の特異点にもみえてくるのだった。ほんらい両立不可能なものが同居し、無限に意味を産出しつづける空虚な「穴」――それこそが作品の呈示する「謎」の形象なのだ。このイメージのめくるめく横ずれ=変奏のありようがすばらしい。同時に「欠如自体が逆説的に全体の充足を担保すること」は作品をめぐるひとつのテーマでもあり、これは作品のメトニミカルな「話法」全体にも敷衍できることもまた付言しておこう。

 

最大風速を叩きだしたのはやはり「砂漠のイド」から「イドの中のイド」を「発掘」した、八話から十一話にまたがる一連の挿話だっただろう。イドの中にも「ミヅハノメ」を発見した酒井戸が「イドの中のイド」にダイブすると、そこは自分が連続殺人(教唆)犯になる以前、妻と娘をうしなう直前の「現実の世界」で、現実/イドすべての記憶を引き継いだまま「鳴瓢として」そこに召喚されるという奇矯な事態におちいる。「裏の裏は表」の奇想。ここで作品最大の「謎」=中心にうがたれた「穴」=文字どおり物語の「中枢」をになう重要人物・飛鳥井木記の存在もあきらかになる。飛鳥井の「夢を共有してしまう」能力、そして「自分の中にあるものが、すべて外に出てしまう」恐怖の独白には、黒沢清『CURE』の教祖的な「殺人教唆犯」、間宮=萩原聖人の「自己自身が空っぽになったから、他人の内側が全部みえるようになった」といった旨の文言もふいに連想される。むろん「内が外に/外が内に」という問題は、先述した「穴」の問題とも相似形、かつ「他者とおなじ夢をみる」事態もまた、アニメーションそのものの謂だろう。いよいよ作品の精度が確信された瞬間でもあった。現実では果たせなかった娘と妻の救出に無事成功し、飛鳥井のために殺人犯の「除去」をおこないながら「イドの中のイド」の世界で生活をつづける鳴瓢。飛鳥井の語った彼女の夢の特質――ときには時間を度外視し、未来のことすらも夢にみてしまう――から、やがて鳴瓢はいま自分が生きている世界こそが現実で、これまでの世界――妻と娘が死んだ現実世界――こそがむしろ飛鳥井のみていた夢だったのだと錯誤するようになる。胡蝶の夢、あるいはボルヘス「円環の廃墟」のような帰結。そうしてついに虚構の時間は現実時間(=物語の第一話にあたる時間)の「尾を噛み」、「穴空き」富久田の犯行現場前で鳴瓢は偶然、ちょうど彼とおなじく「イドの中のイド」にダイブしていた名探偵・聖井戸=本堂町と鉢合わせる。

 

ここで鳴瓢がたがいの「経過時間の決定的な差」を契機に、ようやく世界の真実に直面した場面での画面処理がみごとだ。「この世界に降りたってから、まだ二十分ほどしか経っていない」と述べる本堂町に鳴瓢は驚愕、すでに一年以上は経っているはずだと食い下がる。この体感時間の決定的な齟齬が確認されたとき、画面は――それまでは向かいあうふたりを側面/斜め上方からロング気味でとらえた画、ないし横顔のアップによる対話の応酬が中心だったのが、その瞬間からちょうどふたりの向かいあった中間点を中心にして、コンパスで「半円」をえがくようにカメラが首を振り、まずは鳴瓢から本堂町へ、そして戻ってきて――今度は本堂町から鳴瓢の順でうつされ、みごと両者を「むすびつけた」。「円」のイメージはむろん、時間の完全な同期をあらわすようにワンカット風のカメラワークでふたりをむすんだこと、さらには従来の画面の平面的処理から、にわかに覚醒をうながされるような、世界が立体的に生起する感覚ごとあらわした巧みな一手だった。直後、意表をつくように間歇する鳴瓢家の過去の「イメージ」の連続がまたみごとだ。もはや虚構と現実の過去の別がつかなくなった世界において、「取り返しのつかない過去(のイメージ)」のほうが現実のそれとしていわば「倫理化」され、文字どおり「あふれだす」と同時に、イドが担っていた「イメージ」の問題が個人の抱える「記憶」、およびそれが担保する自己同一性の問題にまで架橋し、かつ、鳴瓢が文字どおり自己を再獲得したことも了解される、この手管(「イメージ」「記憶」に場をゆずるように「顔」がけっして直接にはうつされない、「虚構の世界」の人物たる電話相手の妻と娘の処理もまた的確だ)。だめ押しのような直後のどんでん返しもふくめ、作品のもつ大胆さと緻密さがとりわけ印象的に押し出された挿話だった(絵コンテ・演出はそれぞれ監督あおきえい/副監督久保田雄大のコンビ。なお久保田がコンテと演出[後者は栗山貴行も共同]の双方をつとめた六話も傑出していた)。これらはとくに印象的だったあくまで一例にすぎないが、おしなべて作品の画面は「読み」を喚起するようなロジカルな画面処理と「語り」を意志できていたようにおもう*2

 

最終話、「井戸端」の室長・百貴の心肺停止/嘔吐という「生理」をしるしたシーンからふいにおもわれたことがひとつ。「死が軽い」、あるいは「無重力的」ともいえるイド世界と対比される現実世界では、とうぜん可傷的/可死的な身体が個々の人間にそなわっている。鳴瓢が「イドの中のイド」の世界で仇敵・「対マン」と対峙した一連の格闘場面があれほど執拗かつ陰惨にえがかれたのには、復讐者たる鳴瓢の怨嗟という前提はむろんのこと(あるいはたんに脚本上の「描写」をそっくり映像化しただけだったかもしれないが)、彼がそなえた可死的な身体のもつ痛覚を、対比的に鮮明に打ちだしておく必要があったのだろう――と「時間をさかのぼって」合点がいった。身体の問題――アニメ作品において身体性をになうものには、より重要なファクター、声優の吹きこむ「声」の問題もある。「名探偵」として世界の痕跡を蒐集し、論理の筋をとおす酒井戸=津田健次郎の、流麗で丸みをおびたキャラクターデザインの線に対して、ほとんど違和ともとれる「声という身体」の演技のプレゼンスが、なによりも作品へふかい陰影を落としていた点も特筆すべきだろう。だからこそ最終話後半、飛鳥井に対峙した百貴=細谷佳正の哀切の声音がそれと同等の質感をともない、あたかもその声が「共振」したかのようにして対岸に(飛鳥井を囲うように)酒井戸の虚像があらわれ、文字どおりの「(未来の)希望」――十話冒頭の会話が伏線だった――として示唆される場面はよりいっそう感動的にうつった。そこで間髪いれずに披瀝された「未来」の希望のイメージに、明瞭にそれとしめされずとも十話の会話という「過去」が視聴者の記憶をふいに縫い、そのイメージに合流してひときわ強靭な意味をあたえる、その結晶のような様相そのものがまさしく胸を打ったのだ――という、その時間的な側面についてもかさねて述べておこう。かつて吉本隆明は、ポーを題にとって推理小説の本質を、作者/読者/作中人物それぞれにまたがる「未知と既知」の時間的なかさなりにみいだし論じたことがある*3が、だしぬけにあらわれた謎のイメージ(=未知)が、じつは未来のイメージだったと伏線を介して視聴者の内側で追認される(=既知)この時間的な層の形成をして、そのイメージそのものとともに「ミステリのミステリ性」――すなわち「名探偵の実存」――は、ようやくこの世界に恢復されたといえるのかもしれない。

*1:こうした探偵(小説)をめぐる諸々の洞察は、やはり高山宏『殺す・集める・読む』が、ジャンルの分岐と細微化を繰り返し飽和した今なおその頂点を極めるだろう――参照のこと。それにしてもこうしてアニメ作品と探偵小説の類似を見るに、本作で舞城がミステリに「復帰」しえた理由は明瞭なようにおもう。ここで描かれた「探偵の実存恢復」は、他ならない舞城自身の作家としての自己再帰でもあったのではないか――のみならずこれを「裏の裏は表」的に照応するなら、「すべてのアニメ作品は探偵小説」という倒錯的な拡張性すら内包していたかもしれない。

*2:もうひとつ印象的な例を挙げておけば、真犯人が判明する十一話(絵コンテ:青柳隆平/演出:下平祐一)――「誰かに(上から)みられていること」、すなわち「他者と時間が同期していること」という条件がなければ半永久的にイド世界の中にとどまることができることから、酒井戸と穴井戸のふたりは視界不明瞭な「イド嵐」のふきすさぶ「砂漠のイド」の中で謎に取り組みつづけ、やがて聖井戸と合流(このとき酒井戸/穴井戸は聖井戸を文字どおり「見下ろす」位置)、ついに真犯人の正体に行きあたり、現実世界への帰還をもくろむべく向かったのが「カエル」の死体がある場所。このとき、抑制されていた俯瞰からの視点がようやく解禁され、「カエル」を囲む名探偵たちの周囲だけを砂嵐が裂けた――いわば「台風の眼」という「穴」――の所在をカメラがつまびらかにする。直後の真犯人の「見上げる」アクションと、対置されるように頭上にある「真実」の構図ともあいまって、これもおもわず息を呑んでしまった場面だった。探偵には不可分の「(上から)みること」というアクションが演出レベルで完全に達成され、言葉遊び的に「台風の眼」が「みること」にも接続、かつ空虚な点としての「穴」の主題まで浮き彫りにする連鎖のありようがすばらしい。

*3:吉本隆明「推理論」(『マス・イメージ論』所収)を参照。うち通りのいい部分をふたつほど抜くなら――《〈まだわからないところにいるのに、既にわかっている〉というイメージ、あるいは〈視えるはずがないところにいるのに、じぶんを含めたその光景が視えるところにいる〉という特質》(P.66)。《既往と未往とを交叉させたい欲求や、まったく遠隔にある場所を、一瞬に接続させたいという欲求を、わたしたちはひとしく〈推理〉と呼ぶことができる。そのとき負荷を負うものをどの地平に設けるかが、おおきな問題なのだ》(P.82)――それにしてもベンヤミン的な文章というかなんというか。

ポン・ジュノ『パラサイト 半地下の家族』

(noteに投稿したものと同内容です)

 

映画は本能的に寓意のもつ危険性を知悉しているものだ。安易な象徴化は目にみえない「読みとられるべき意味」のほうを中心化し、ほんらい可視的な運動や差異のもっていた快を二次的な周縁へとおしやってしまう。ヒエラルキー的なのだといってもいい。だからおおくのすぐれた映画作家は映像=可視的なものを安直な意味化のながれからすくうことに躍起になり、あるいは可視的なものによる意味の「転覆」のほうへ熱をあげることになる。他方、程度の差こそあれ、かたちあるものはみないやおうなく、みずからになにかしらの意味を「住まわせてしまう」という「宿命」についてもまた言をまたない。すべての形象に意味がある、あるいは、形象は不可避に意味をもってしまう――そうした「宿命」が、ときにはフィクションを駆逐し、またときにはフィクションと結託しさえもする。

 

山水景石という「象徴物」を、冒頭からいかにも「象徴らしく」もちいてみせた、最新作『パラサイト 半地下の家族』のポン・ジュノ監督もまた、それらの世界法則すべてに自覚的な作家のひとりだろう。せまくるしい「半地下」の家に暮らす目下ぜんいん失業中のまずしい四人家族が、ひょんなことから縁をもったブルジョワ家族のもとでつぎつぎ職を得ていき、一家もろともその豪邸へ寄生=「パラサイト」する奇策にでる――という、この奇異な物語のあらましだけでもすでに「上下格差」という目にみえる寓意はまずあきらかだ。じっさい作中の「構図」へのこだわりはとにかく徹底している。「半地下」の家と「寄生先」の邸宅の空間的対比。記号的ともいえる人物たちもまた、じしんの社会的・役割的な「立ち位置」をめぐり、とりわけ「上下」の位相をめぐって階段をのぼる/降りる、みあげる/みおろすといった構図的アクションを終始反復する。随所に精妙にちりばめられた偏執的なまでに構図的/図像的なそれら記号を「読む」おもしろさもむろんだが、問題はそのいっけん明瞭すぎるともみえた寓意がしだいに「化け」、やがては真空地帯へずれこんでいく怒涛の物語展開にある。たとえばいま例にあげた山水景石がじっさいには「象徴の象徴」だったように、空間とその位相差をめぐる物語が最後に顕現するのはたんなる象徴ではなく、寓意をひたすらすいこんでいく「空虚」のあらわれなのだった。なにぶんその数奇な物語にこそ本作のおもしろさは集約される。未見のたのしみをうばわないよう、以下は話の核となるおおきなネタバレにはあまりふれないよう、要所要所をかいつまみつつ作品への言及をこころみたい。

 

「半地下」というのだからそこは地上でも地下でもなく、あくまでその「あいだ」だ。ファーストショットはその「半地下」の家の窓からのながめだった。フレームインフレーム。往来する車や道ゆくひとびとが――ちょうど加藤泰が多用した超ローアングルのような――地面のさらに下をほってカメラをすえたような視界として窓の外にひろがる、そういう場所にキム一家は暮らしている。失業中の父ギテク(ソン・ガンホ)、その妻チュンスク(チャン・ヘジン)、大学受験に失敗しつづける長男ギウ(チェ・ウシク)、美大をめざす次女ギジョン(パク・ソダム)――この四人がまずは冒頭、せまい家のなかをぎゅうぎゅうに埋めつくす。とうぜん問題は「空間」のそれになる。wi-fiのアンテナが立つ場所をさがして(しかもこれは他人の家のwi-fiなのだが)ギウが身をかがめつつ室内を行ったりきたりする一連で観客にも家の空間配置を即座にわからせる冒頭。こうしたこまかい演出からも「空間」への配慮はすでに明白だろう。では「半地下」の空間的特質はどこにあるか。天井はひくく通路もひどくせまいため、身体はしぜんちぢこまる、そうした実害もあるが、問題はなにより「半地下」の「半」、すなわち「あいだ」の位相にこそあった。家中からは路上でのけんかや社会的な落伍者の痴態もまるみえだ。いまからだれが家をたずねてくるかも即座にわかる。こんなディティールもあった。窓からみえたのは殺虫剤とおぼしきガスを四方八方に撒布しながらこちらへむかってくる男。ちょうど家中の「便所コオロギ」の殲滅になるから窓はしめるなと父ギテクは言う。まっしろいガスが窓から家のなかにながれこみむせかえる一家。画面は煙ですっかり不鮮明になった――この一連でわかるのは、家が地面にいわば「接して」いる状態にあること、つまり内にいながら外に、世界に「半分ひらかれて」いるという「半地下」の実質だった。だからこそ一家は近隣の事情にもよく精通しているし(内職先のピザ屋からなかばおどすかたちでしっかり金をもぎとる場面)、現在失業中とはいえ、のちにわかるように家族みな職を得たのちはそれなりにふるまえるほどには相応の能力をそなえてはいる。ぜんいんがぜんいん「中途半端」で、目下「宙吊り」状態なのだ。「半地下」の家はその意味ですでに空間を埋める構成員たちと運命をともにしている。「空間が居住者に似ている」のだった。

 

そんなかれらの「寄生先」の邸宅は一転――おおくの富豪の家がそうであるように――どこもがらりとしてひろく空白がおおい。有名デザイナーにより設計されたという豪邸は二階建てで、序盤から中盤にかけて構築される「喜劇」のおもな舞台となる一階は――これが作中もっとも多用される構図になるが――むかってカメラ手前側には横にひろいリビングがあり、その右奥にダイニングがみえ、左側には二階へのぼる階段がある(リビング側からだと階段にかくれてみえない――だから死角がサスペンスを誘発する――が、ダイニングの左奥側には冷蔵庫や地下貯蔵室につながる階段通路がある)、そういった配置。リビング側から全体をとらえたこの「三すくみ」の構図がのちのち爆発するサスペンスの導線でもあった。だだっぴろい「庭」も印象的で、壁いちめんガラス張りの窓がフレームインフレームを構成しているリビングからその全貌がそっくりみわたせた。とうぜんそれらがかたどるのは「美」だが、構図的にはどこか「間抜け」でもある。ここでも空間が住まう人物に「似ている」のだった。家の主はIT企業社長のパク氏。そうしてこちらの一家も、あまりに純朴=「シンプル」な妻ヨンギョ、高校生の長女ダヘ、おさない次男ダソンの四人構成で、くわえてまえの持ち主の代からつとめる練達の家政婦も席を占める。むろん五人ではひろすぎる空間だ。

 

構図的に「間の抜けた」空白は、いずれは埋められなければならない――これこそが映画のもつ至上命題だろう。その論理じたいが時限装置として作動する。最初のきっかけはギウの友人ミニョク(パク・ソジュンのカメオ出演)からの打診。長女ダヘの家庭教師をしていた秀才のミニョクは、じぶんが留学で仕事をあけるあいだ、代打を信頼のおける親友ギウにたのみたいのだという。ギウの武器はひとつ、長年の浪人生活でつちかわれたことばの力だけ。ようは「ハッタリ」だ。美術センスは一流の妹ギジョンに大学の学生証(卒業証明書だったもしれない)を偽装してもらい語学エリートに扮装するギウ。ダヘとその母ヨンギョの信頼をみごとかちとった。すっかりダウに気をゆるしたヨンギョは次男ダソンにつける美術教師をさがしている旨をそっともらす。それを聞いてひとり「当て」があるというギウ。むろん妹のギジョンだ。やはり超エリートになりすました。経歴はぜんぶ口からでまかせ。それでもすべてはうまくはこび(あるいは「はこびすぎ」)、晴れてギジョンも美術教師という居場所を得た。ここまでくればあとの展開も容易に想像がつく――父母もそろって一家ぜんいんでの「寄生」だ。あまりにも突飛なアイデアに「共犯」の観客もおもわずニヤついてしまうはず。「間抜け」な家の「間抜け」な家族を、下層民の一家がずぶとくもどんどん巣食っていく――徹底的に構図化されたベルクソン的ともいえる哄笑にみちた序盤はただ生起する「喜劇」に身をまかせるのみだ。

 

以降、父母が順に「寄生」していくプロセスもきわめてスマートで、もはや「できすぎ」の域だった。画面も小気味いいカッティングとスローを多用したほとんどMV的ななめらかさを獲得していく。人物が情動をともなわない反面、喜劇としてすなおに「笑える」一連がつづく。以降は「空席をつくること」からはじめなければならなかった。まずは父ギテク。パク氏の専属ドライバーに焦点をしぼったギジョンは、初日の帰りを車で送りとどけてもらうさなか、ひとつ豪快なハニートラップをしかける。これを機にいともあっけなくドライバーは解雇され――とにかくパク一家は愚鈍なのだ――、そのあいた枠にギテクがまんまとすべりこむ。最後は難関ともみえた家政婦。しかしこれも致命的な弱点をひとつみつけ、家族みんなでうまくたばかって――めざましいチームワークが詰め将棋めいた編集であらわされる――みごと母親の席も獲得できた。順風満帆――ここまではパズルのピースがきれいに埋まりすぎて、かえってなにか異様にすらみえる。すでに家の空間そのものが、つまりは空虚そのものが意味を「住まわせ」ようと蠢動しているのだろうか。とうぜん観客はきたるべき破滅を予感するだろう。中盤でパク氏一家が団欒、キャンプにでかけると、もぬけのからになった邸宅内でキム一家は案の定豪遊をはじめる。父母はリビングの広大なソファで豪快に昼寝、ギウはけっきょく恋仲となったダヘ――「大学進学後は本格的につきあう」と、前任だった友人ミニョクの言をそっくり模倣してしまう、構図化された「入れ替わり」がやはりここでも徹底している――の日記を読みあさり、ギニョンは二階の風呂を占領、夜になるとぜんいんで酒盛りをする。本質的とみえる会話もあった。パク氏一家が純朴で「やさしい」のは経済的な「余裕」があるからで、じぶんたちにはたんにそれがないだけなのだと。ここでも「空間」が経済格差の寓意を「のんで」しまっている。埋めきれないリビングの余白をこぢんまりと、それでも贅をつくしてどうにか埋めようとするキム一家。これが真に寓話だったなら、ほとんどうまくいきすぎな好況に調子づいた一家は、対価としていかにも教訓めいた「報復」をこうむっていたところだろう。じっさいこの場面からかれらは、おおくの観客の予想どおり手ひどいカウンターを受けることになるのだが、ただしそれはあまりにも斜め上からの――あるいは「斜め下」からの――かなり意外なものだった。ここからストーリーテラーとしてのポン・ジュノの才気がひかる。

 

このドンチャンさわぎの晩、あるひとりの来訪者が家族のもとにあった。不気味な笑いと意外な身体速度が印象的だったこの人物についてはここでは名前をふせておこう。そこからは急展開。ネタバレをさけて抽象的にしるすなら、おこるのは以下のようなことだ――上下関係が確固で安定していた構図のうちに、いわば「脱世界」的なべつの空虚の「とびらがひらかれる」。確認しよう。「半地下」の家の特色は世界に「半分ひらかれた」、いわば「半世界」(阪本順治の同名作を連想させるまぎらわしい造語で恐縮だが)の位相にあった。他方、おだやかでがらんとしたパク家の邸宅はそれだけで自己完結的な世界性を享受しているといえる。ここにくわえてある闖入者が登場することで、世界からより苛酷に隔絶された、いわば「世界の無意識」ともいえる「脱世界」的な空間がだしぬけに導入されるのだった。この不意打ちによってキム一家は、これまでの「下層民が上層民を巣食う」安定的だった構図をいきなり剥奪され、いまいちど「半世界」の不穏な「宙吊り」の世界に「ずりあげられる」。直後に起こるのが一転して緊迫感に満ちたより精度のたかい「サスペンス」なのがその傍証でもあった。意想外の闖入者によりとつぜん窮地に立たされたキム一家は応戦にでる。そこへさらに(これは「お約束」だが)豪雨で急遽帰宅を余儀なくされたパク一家までも合流し、阿鼻叫喚の人物たちで余白が埋められ画面はにわかに活気づいていく。この窮地によって映画の空間は「アクション」の恩恵にくみするのだ。アイデアが印象的だったアクションを箇条書き的にあらわしておこう。①携帯を拳銃のようにつかったせまい通路でのアクションシークエンス(念頭にあったのは黒沢清クリーピー』終盤の、ほそくくらい一本道の通路上での西島秀俊香川照之の拳銃を介した対峙場面ではないか)②ラグビーの試合を彷彿とさせる――スポーツならばすでにポン・ジュノは『グエムル』のペ・ドゥナ=アーチェリーという前例もあったが――スロー処理された携帯の乱闘争奪戦③パク一家帰宅によって発生するかくれんぼ的なサスペンスシークエンス④アクション主体のすさまじい身体反応――とりわけ母チュンスク=チャン・ヘジンによる「後ろ蹴り」と、それによる被害者の即物的な「階段落ち」。いずれについてもどこかで「見立て」に接していることも注目にあたいする。やはり形象は不可避に意味をもってしまうのだ。この場のある人物によって発せられるきわどい「北朝鮮ギャグ」についても同様――これによって「格差社会」を模していた家屋空間は「国家危機」という寓意/見立てをもあっさりのみこむ。空虚は意味をたえず「住まわせ」、肥大化するどころかなおいっそう空虚の度合をつよめてしまうのだ。空虚といえば、この局面で重要になる地下貯蔵室へつづく通路が、外からでは階段の存在がみえないほどに「ぽっかり矩形にあいた穴」のようにうつされていた点(こちらは『回路』『ニンゲン合格』の「壁のシミ化した人間」を参照したのだろうか)、あるいはリビングの机の下に父・妹・兄が横ならんで寝ころびかくれるサスペンスシークエンスの最終局面で、その矩形の机を天井側から見下ろすポジションになると、そのままそこがまっくろい四角い穴のようにうつる点をおもいおこしてもいいが、ここにきて画面に「不可視の(/不可視にしかみえない)空虚」が文字どおり「穴」としてあらわれる画面の異常事態もまた重要だった。じょじょに不可視のものが可視的に画面をみたしはじめるのだ。それはたとえば「情動」についても同様だった。だからこそ映画は終盤にいくにつれ、やはり韓国映画らしい(それでいて真逆のような虚無感すら同席した)エモーションの爆発へと収斂していくのだったが、そうなるとやはり中心軸はキム家の父ギテクを演じる「韓国の顔」とでもいうべき俳優、ソン・ガンホの存在になる。

 

父・妹・兄がそろって机の下という「半地下」にかくれたのは、パク夫妻と息子ダソンがとつぜん起きて一階に降りてきたからだった。ダソンは雨が降る庭に単身とびだしていきその中央にテントをかまえはじめ、それをみまもるために両親が今夜はリビングのソファで横ならんで寝ることになった。その直下のテーブル下にキム父・妹・兄の三人がぎちぎちになってかくれている。最接近の瞬間だった。緊迫感が持続する。どうにかすきをみてのがれたいがパク一家はなかなかねむりにつかない。やがてギテク当人が真下にいるのもしらず、夫妻はかれの「匂い」についての悪態をつきはじめた。たとえ別人に扮装していても、家族は「匂い」でそれとバレてしまう、というディティールがこの前段にもあったのだった。「生まれ」は「匂い」と結託しているのだ。むろん「匂い」とは「不可視」で、これもまた映画においては空虚なブラックボックス、それでいて空間内にたしかに「みちる」ものとしてある。机の下で夫妻の悪態にたえるギテク=ソン・ガンホの、これまでは比較的ほがらかな局面のおおかった顔がここでにわかに硬直し表情をうしなう。ついには頭上で発情しまぐわいあいはじめた夫妻(ここでは「性の匂い」が充満していたはず)。なおもギテクの表情はかわらず、虚無的で石のようにかたまったままだ。ここからガンホの表情は――とりわけパク氏との面とむかった会話場面において――「匂い」に関連してこの硬直を一貫するようになる。いささかあざとすぎともとれる「意味」の爆発の予感におおくの観客は不穏をかぎとるはず。上流のパク夫妻による階級差をついた露悪に怨恨をつのらせはじめる下層民、というわかりやすい「構図」――表面的にはとうぜんそのような理解がおよぶが、ことはそう単純にはいかない。この結末はさらにのちにつづく「誤作動」の乱打によってほとんど錯乱した様相をていしていく。どういうことだろうか。

 

どうにかその場は乗りきって脱出に成功する一家だったが、ここから物語のトーンはさらに変幻する。逃げかえった「半地下」の家はトイレ等から噴出した汚水の大洪水によって近隣ごとすでに壊滅状態。うねるような濁流が極大化した情動をかたどっている。圧巻だ。くわえてクロスカッティングの「誤作動」までも起こる。苦境に立たされた例の闖入者が便器にむかって嘔吐すると、他方「半地下」では便器からまっくろな汚水がぶしゅぶしゅと音をたてて噴きあげる。空間的断絶をこえた形象的なシンクロが――とりわけ人物たちの「恨」の――情動を介しておこっていたのだった。人物たちのおかれた状況もおおきく変化する。兄ギウはたえず不安げな表情をうかべたまま、家にあった山水景石に奇妙な執着をもちはじめる。表情のかたいままのギテクは、それでも息子にむかって「策がある」といってのける――「無策という策」が。理屈はこうだ。前もってなにかを計画するから「計画の失敗」という事態が起こる。そもそも計画をしなければ、なにが起きても計画は失敗しない――表面的にはただその場の状況に即応する/偶然にまかせるという一種の楽観主義(あるいは反知性主義)ととれるが、問題は「無計画」=「空虚」がけっきょくは「計画の成功」=「充足」に包摂されてしまうという逆説をもこの論理は内包している点だろう。「からっぽなことがみちたりていること」という倒錯が生じるのだ。

 

それがどういった状況なのかは、以降におこる作中最大のカオティックな一連によって判明する。ここもネタバレ防止のため詳細ははぶくが、そこで多発する「無計画」ゆえの偶然的な「誤作動」だけは抽象的にしるしておく。①暴力発露の主体とその結末②終始不穏をたたえていた山水景石のゆくえ(だれの手にわたり、どうつかわれるか)③ある人物のみための窮地に比してじっさいに致死をこうむるのはべつの人物だったこと④「匂い」を機にすこしずつつのらせたギテクの情動の結実(=それが作動する直接のトリガーが自己自身にはないこと)。いずれもがすこしずつほんらいの予測から誤作動的に「ずれ」=「狂い」、ところが結果だけみれば予測されたカタストロフは――観客はすでに「余白を人物たちがみたすことが映画的な歓喜の場面に直結する」と訓育されているから、あの空虚だった庭をついにたくさんのひとがうめはじめたところですでに期待をつのらせていたはずだ――「狂いなく」起こってしまっているという不均衡があるのだった。顕著なのはギテクの顛末だろう。虚無的な表情のうちに不可視の「なにか」をためこんでいたギテクの予測されたはずの爆発が、自己存在のもつ「意味」とはべつの契機によって作動すること。つまりギテクの顔はそこで「空虚」としてべつのものを包摂=「住まわせて」しまっていたのだ。情動の「とりちがえ」――事態発生の直前、身内の悲痛な状況をつたえるカットがかさねられたこと、しかしその加害者にはもはや情動をかえしようがなかったことからおきた「誤作動」。述べるところは破局的な洞察だろう――人間そのものの空虚さ、すなわち空間性。虚無的な記号としての「顔」――それはブラックホールのように周囲のものを、情動を、意味をひたすらにのみこみ、それでいてけして飽和することがない。かえって空虚に空虚がかさねられるだけなのだった(頻出するフレームインフレームの意味するところはその無為の様態だったのではないか)。それをあらわす役目を「韓国の顔」ソン・ガンホがになったことの畏怖こそをかんがえるべきだろう。

 

映画終盤、父親がおかれることになった苛酷と、なおそこで「半地下」的な世界とのつながりをたもとうとするかれのすがたに、因果の問題を度外視して「うっかり感動してしまう」「誤作動」をも世界中の観客がよびおこしたのはなぜだったか。映画が希求したおそるべき空虚が、ほんらいが倫理をもった「中間性」と形象的にほとんど一致してみえたからではないか。無が無であるために倫理や崇高さをもすいこんでしまうこと――それはいっけんアメリカや北の寓意をもっていそうにみえて、実態はまったくの虚無だった『グエムル』の怪物グエムルと、それと対峙する一家の「からっぽさ」にもみられた事態だった(むろんふかく意味のからまりあった事件を最終的に「無へひらく」『殺人の追憶』『母なる証明』のこころみなども同時に想起される)。そうして中間性と相互的な関係にある虚無とは、端的に映画性のことをさすのではないか。だから興奮だけがのこる。映画の最後にしめされた「計画」が、成功か失敗かの実現をまたず「半地下」の「宙吊り」にさしもどされ「ひらかれて」終わる、あの虚をつくようなラストカットにこそ、本作におけるポン・ジュノの無と中間性をめぐる真のもくろみは含意されていたはずだ。

ジェームズ・マンゴールド『フォードvsフェラーリ』

(noteに投稿したものとおなじ文章です)

 

座席にふかく腰かけたからだぜんたいにつたわるエンジンの轟音。夜中なのだろうフロントガラス越しの視界はふかい闇とたちこめる霧でひどく不鮮明で、そのなかにぽっかりと浮かびあがったうわの空ともみえる運転席の男のじっと一点をみすえた「顔」もまた、汗とオイルでくろくよごれている。車がピットインする。刹那、車体の表面がにわかに発火――いましがた運転席を出たばかりの運転手ごと火につつまれた。クルーたちがとっさに鎮火する。車体の限界は目にみえている。男はそれでも走るという。男はクルーのひとりにたずねる――俺のからだはいま燃えていたか、と。ふたつの含意があるのではないか。ひとつは、おまえはなにもみていない、限界などない、ただ走るしかない、という意志。もうひとつは、もはやあつさの感覚すらないからだの現状。じっさいふたたび走りだした男の真剣な表情に、おおよそ以下のような主旨の内語がかさねられる――7000回転の世界においては、車体が消えてもはやからだだけの存在となり、そのからだだけで時間と空間を跳躍していくようになる。そうしてその耳もとまでおいついて、こうたずねるなにかがあるのだ、と――「お前はだれだ」。

 

ジェームズ・マンゴールド監督によるあらたなアメリカ映画の傑作『フォードvsフェラーリ』の冒頭場面でかたられたのは一種の身体論だった。24時間におよぶル・マンの長丁場を走りぬけるさなか最後の直線上で到来するというこの「脱自」がしめしていたのは、高速の世界のなかでじぶんがじぶんを「おいぬいて」からだだけの存在として匿名化する現象、つまりからだが記名的な「顔」をはなれるという一種の離人的な事態だ。他方、それをかたったさきの男――マット・デイモン演じる(この時点ではまだ現役だった)元有名レーサー、キャロル・シェルビー――の当の内語が発せられているとき、カメラが正面からとらえているのは運転席でまっすぐ進行方向をみすえたままのデイモンのまさにその「顔」でもあったはずだ。するとレース中にレーサーをおそうエクスタシーの瞬間(あるいは「無時間」)においては、「一時消えた顔があとからあらわれる」、つまり離人と自己自身の再発見=自己再帰が僅差で継起しているのではないか。結果、この脱自は「お前はだれだ」という神からの問いかけにも似た自己の再認識をせまられることになる。「顔」の喪失がほかならぬその「顔」を更新するのだ。むろんそこには「顔」とそれがあらわすエモーションを有史いらい撮りつづけてきたアメリカ映画それじたいへのつよい意志があるものとみていい。

 

じっさい本作のフォルムはいっぽんのアメリカ映画としてきわめて重厚かつ高貴だ。もとより古典への造詣がふかいマンゴールドの作ではあるが、たとえばイーストウッド許されざる者』を基底材にアメリカ映画という「物語」ごとアメコミヒーローの像へ包摂しようとした前作『LOGAN/ローガン』が「物語」の鈍重さにのまれ、やや苦戦していたようにもみえたのにたいし、本作は150分の長尺を感じさせないほどずっと「かろやか」だ。レースの体感と同様、たえずなめらかに持続する多幸感に上気してしまう。めくるめく登場人物たちの丁々発止のやりとりや職業集団的な美徳、ときには「小ずるく」もみえる細部の突飛なユーモア――ネジを落とすトラップ――は、ほとんどハワード・ホークス的ですらあった(この気風はスクリューボールコメディ的な意匠が満載だった秀作『ナイト&デイ』にも顕著だったが)。むろんいかにもアメリカ映画らしい伝統的主題についても自覚的だ――(疎外された)英雄像および「父性」、勧善懲悪(二項対立)の「闘い」、男同士の友情(ホモソーシャル)、(擬似)家族性、「(ややよわいが)継承」の主題、「にがい勝利」、そして「物語」そのものへの拘泥。字面だけみればいずれも前作からすでにもくろまれていたものだ。ゆえに本作も結果的にイーストウッド的なものをどこかで彷彿とさせる。とりわけ近年つづく「実話もの」の空気(本作もベースは実話)。終盤、マット・デイモンクリスチャン・ベールがふたり横ならんで肩をだきあい、おしよせる人波にさからうように逆方向へ去っていくすがたを背中ごしにとらえたショットには、『ハドソン川の奇跡』終盤の機長トム・ハンクスと副機長アーロン・エッカートの同道する「妙にカラッとして感動的な」後ろすがたが妙にかさなってしかたなかった。多幸感のなかの「にがさ」に/「にがさ」のなかでもかがやく「熱さ」に泣かされてしまう、あのアメリカ映画的な熱狂と歓喜がここにもある。

 

『フォードvsフェラーリ』と銘打たれた映画だが物語はおしなべてフォード側に焦点をしぼる。ル・マン連覇中の絶対王者フェラーリにたいし、モータースポーツ分野においては遅れをとっていたアメリカの雄フォード社が、買収の破談を機にフェラーリとレースでの全面対決を決起する。そのさい顧問として起用されたのが先述したデイモン=シェルビーだった。シェルビーはさらに彼と数奇な邂逅をはたした、くせものだが腕は超一流のイギリス人レーサー、ケン・マイルズ(クリスチャン・ベール)を誘致し、ふたりでマシンの開発からはじめ、ゆくゆくはル・マン出場にのぞむ一連を物語はなぞっていく。ふたりのスター俳優、デイモンとベールの「顔」のアンサンブルも一種の「対決」とみてとれるが、実相はともに「車狂い」なふたりの軽快で当意即妙なやりとりが「相即」していく興奮にむしろ比重がある。たとえばふたりが出会う場面はこうだった。テストレース会場で係員とトラブルを起こしていたマイルズをシェルビーが抑止しにくる。なおも態度をあらためないマイルズに、こんどは「腕はあるのに性格がたたってつかってもらえないのだ」と、まさに図星をついた皮肉でやりかえすシェルビー。口が達者だ。他方マイルズはもっていたスパナをぶん投げて暴力で応答。こちらもなんとも破天荒だ(結局、ほうられたスパナはほかならぬマイルズのマシンのフロントガラスを割ってしまった――これも自己再帰的な運動だったかもしれない)。ところがテストレーシングにうつるとマイルズのたしかなセンスがにわかに判明する。あっというまに競合車をぬいていくマイルズのマシン。最後の直線にさしかかった。のこりは先頭車一台だけ。シェルビーがつぶやく――「まだ早い」。マイルズはうごかない。「まだだ」。順位はなお変わらない。そして――「今だ」とシェルビーがいうと同時にマイルズの車はいっきに加速、ぎりぎりで先頭車をおいぬいてみごと一位を獲得した。問題はアフォーダンス的ともいえる「呼吸」、ひいては「タイミング」のそれなのだ。マイルズの才能はほかならぬその「タイミング」をつかむ手腕にあり、かつそれはシェルビーのもっていた資質とももとより「合致」していたことがあきらかになるのだった。とうぜんそこには映画じたいのもつ「呼吸」という問題もあらわれる。そういえばさきにふれた『LOGAN/ローガン』の序盤でも、ヒュー・ジャックマン演じるウルヴァリンとダフネ・キーン演じるミュータントの少女が出会いがしら一瞬の視線の交錯のうちに、まるでそれだけでたがいの存在のすべてを了承したように結託し「相即」するわすれがたい細部があった。一瞬のうちに本能で相手を存在ごと受容するような「瞬間」の映画的な豊穣さに作り手はほんとうに自覚的なのだ。

 

アメリカ映画的なのは「組織対個人」というおおきな構図についてもそうだった(「対決」要素はむしろここにつよい)。シェルビーとマイルズという強力な助っ人を手にいれたフォードだったが、会社としてはただの勝利だけでなく「車を売りこむ」ビジネス的側面もとうぜん必要なわけで、その剛腕に比して内奥的には素朴かつ粗雑すぎるマイルズの存在は――作中、副社長によって「彼は純粋すぎる」とも形容されていたが――社のイメージに不適合だと難癖をつけられ、おりにふれてチームからの疎外をこうむることになる。「顔とからだ」の問題に換言すれば、こと商業の世界においては目にみえる「面目」=「顔」がまずなによりも重要で、「みえない」「からだ」は二の次だといったところか。フォードという組織=「からだ」につける「顔」としてマイルズは不適当だとみなされたのだ。元レーサーとしてマイルズにつよい共感をみせつづけるシェルビーだったが、これは「フォード」という組織の名を背負ったチームプレイでもある以上、心を鬼にしなければならない場面もあった。だれよりもマシンについて知悉し、それを乗りこなしていたマイルズが初陣から「疎外」されてしまう最初の苦難。排斥の事実を告げ、わがことのように苦悶の表情をうかべるシェルビーにたいし、表面的には(=「顔」では)不平もいわずそれを呑みがえんずるマイルズ。あっけなくチームの輪からはじきだされたマイルズの孤独と哀切をメロドラマ的な感傷とはことなるかたちでえがいたつぎの場面が泣かせた。ひとり整備工場にのこって作業していたマイルズに、とおりかかったスタッフが「試合がはじまるからラジオをつけようか」と提案する。マイルズはことわる。ところがそのスタッフが帰ってからひっそりとラジオをつけ、きこえてくるエンジン音からレース状況を「診断」しつつ(マイルズにはじぶんが整備したマシンの容体が音だけでも「わがことのように」わかる――つまりそれはマシンが「もうひとつのじぶんのからだ」だということでもあった)、それに孤独に聞きいるマイルズのすがたがうつされるのだ。そこへあらわれたのがマイルズの妻モリーカトリーナ・バルフ演じる――ここは冒頭構図の反復。こうした反復する細部もゆたかだ)。モリーはラジオのチャンネルをひねり、一転ムーディな音楽にかえると、夫とふたり、やさしげなダンスに興じる――「顔」から疎外された「からだ」たちは「からだ」で共鳴しあう。それもおおきな組織ではなく「ふたり」という最小単位の「相即」によって。これも催涙的な細部だった。

 

ところでマイルズはいくども組織から「疎外」されるとはいえかならずしも「孤独」な存在ではない。前述した妻モリーと、息子ピーター(ノア・ジュープ――この子役のつねに純朴な憧憬をはらんだ「まなざし」の演技がまたすばらしかった)の存在が重要だった。順番は前後するが、マイルズが執拗に彼をスカウトしたがるシェルビーにさそわれ、夜な夜な試作品のテストドライブに出かけたその翌日の場面。モリーが車を運転し、助手席ではマイルズがポテチをパクつきながらくつろいでいる。昨晩のことをモリーが問いたずねる。マイルズの返事はあいまいだ。それに憤慨したモリーがいきなり車のスピードをおもいっきりあげた。もちろんスポーツカーでなくふつうの自家用車。「サーキット」もただの一般道だ――困惑するマイルズ。目前を走っていた車をつぎつぎおいぬいてどんどん加速していく。速度の上昇とともに声をあらげるモリー。そのひずんだ「顔」がはっきりうつされるとき、本作における車はそのままエモーションの煽動装置として存在しているという事実におもいあたるはず。車は「情動」をかたどるもうひとつの「からだ」なのだった。観念したマイルズがフォード社での仕事を打診されたことをモリーに白状すると、ようやく車は減速。そうして、モリーが真に激昂していたのは「マイルズが本心をかくしていたから」、つまり困窮する家族のために平凡な定職につくといって「ほんとうは車の仕事をしたい」というじぶん自身をいつわっていたからだということが判明する。じぶんのかたわらにいる妻のほうがじぶんのことをよく知悉しており、わがことのようにそれをかなしみ、怒る。ここにも「相即」があった。いまいちどさきの妻とのダンスシーンを想起してもいいが、マイルズをとりまくのは「顔」と「からだ」の組織的な主従関係ではなく、つねに「からだ」と「からだ」の「呼応」なのだ(それはもうひとつの「からだ」たる「車」にたいする態度についてもまた同様だ)。それがより明白だったのはつぎのシーンだろう。ひとり「留守番」をまかされてしまったマイルズのもとに、初戦をみごとに惨敗で終えたシェルビーが帰還してくる。切り返すふたり。謝罪の言葉は数言であっさりすまし、なかば不遜ともいえる態度でふたたびの結託を説くシェルビーに、マイルズはただ「一撃」、その顔面に拳で一発くらわしてやる。組織の「顔」をとったシェルビーの「面目をつぶした」わけだ。そこからふたりして芝生のうえにころがりこみ、まるで子どものような殴りあいのけんかをはじめる。「顔」から「からだ」へ。押したおしたいきおいでマイルズがもっていた買い物袋から品物がつぎつぎこぼれ落ち、そこからシェルビーがいちどはビール缶をつかみとるも、殴るには不適当だとすぐにおもったのか、たしかパンかなにかが入っていた袋にもちかえてマイルズに応戦したり、家の窓から一連をみていたモリーが止めにはいるのかとおもいきや、折りたたみチェアを持ってきて本人たちが満足するまでかたわらでそれを観戦する、コミカルながらこうした「やさしい」細部がどうしてか泣かせる場面でもあった。結局その「段取り」を経てふたりは和解、いまいちどタッグを組むことになる。問題は変わらず「からだ」どうしの「呼応」のありようなのだ。

 

映画の魅惑はさらに(「顔」「組織」にたいする)「個人」とその「からだ」にいっけん肩入れするようにみえるぜんたいの推移が、一種の「組織論」までもすくいとってしまうことだろう。走らせるごとにマシンの改善点はふえていく。はやくするためにはもっと軽くせねばならず、軽くすれば馬力が減るからこんどはエンジンを強化する必要に駆られる。ほかにもブレーキがよわいとか、接地感がつたわらないとか――もちろん、これらはすべて操作するマイルズの身体感覚ともそのままかみあっていることが重要だ。くわえてこれら「からだ」への診断は、そのまま組織という「からだ」にも転用できる。社長ら重役たちのまえに呼びだされたシェルビーは初戦大敗の原因を説く。いちいちの決定に無駄な事務手続きがおおく、「贅肉ばかりで」組織じたいが「おもすぎた」こと。換言すれば「思考する頭部と身体可動部がとおすぎること」。元はレーサー側だったシェルビーがあくまで主張するのは「身体による思考」なのだ。マイルズをレーサーに据えると確約してからのチーム再発足後、機転をきかせたシェルビーによるわすれがたい場面があった。なおもマイルズを主軸からはずそうとする副社長をオフィスに閉じこめ(ここも笑えるアクション的な細部だった)、単身社長のもとにむかったシェルビーが提案したのは、社長当人をレーシングカーの助手席に乗せてのテストドライビングだった。うえからの指示だけで内実をしらない社長にも「じっさいに」それを体験してもらおうという魂胆だ。むろん走行は全速力。想像以上のスピードに阿鼻叫喚な社長の絶叫――冒頭、工場の労働者たちに呼びかける場面ですでに「よくひびく」ことが周知だったが――がエンジン音とかさなり、それと呼応して、肉襦袢を着たようなぶよぶよの「顔」もまたその負荷に耐えられず、脂肪が波うって後方へながれていく。ようやく車を停め、ドライブの感想をたずねるシェルビーに、社長はどう反応したかというと――「泣きだした」。社の「顔」たる存在の「顔」が文字どおり「くずれた」のだ。おおいに笑えて泣けて爽快な名場面のひとつだった。ここで一転、「顔」は「からだ」にひとまずはほだされたかのようでもある――そう、すでに周知だろうが、映画における「組織対個人」の対決とは、厳密には「顔対からだ」の対決としてあらわれていたのだった。

 

では「顔対からだ」の対決はどこへ執着するか――それは映画の最後に用意された、ほとんどアルドリッチ的ともいえる忍耐づよさで時間をふんだんに割いてえがかれるル・マンの熱狂的な本戦場面にあきらかだが、ここではその詳細と結末はしるさない。映画ぜんたいが燃えあがり「きしむ」ような昂揚のつづく一連はぜひ劇場で体感してもらいたい。ただ一点、「からだ」は「顔」に優越するが、それはけっして永続的なものではありえない、ということだけ述べておこう。その結実には、「からだ」とは「顔」とはことなり定位をこばむもの、あくまで「瞬間の刻々」としてしかあらわれないもので、あらわれてはすぐに消えていく、「ながれて」いくようなものとしてしか存在しない――そうした時間哲学までおそらくは含意されているはずだ。そうして、それはそのまま「映画のからだ」とも同時的なのではないか。ある特定の場所に定位することなく、あくまでそれぜんたいとしてしか存在しえないものとして、ただ「ながれて」いくこと。つまりは「うごきつづける」こと。そしてそのはてに、それらの時間的な累加を――いいかえれば「加速」を――ふまえたうえで、最後の最後にようやくおこる「脱自」にただ「賭ける」こと。それは映像それだけの自己完結性を拒絶し、たえず「物語」への奉仕をつづけて「ながれる」古典的なアメリカ映画のもつ「呼吸」とも相似だったはずだ。中盤、フェーン現象からの炎上トラブルによって徐々にマイルズをとりまくようになる死のかげが、むしろレースシーンでの観客の興奮と催涙性をどんどんたかめていったように、映画のエモーションとは物語の――あるいは換言すれば「運命」の――すべてをもろとも糧として呑みこみ、かつそれを「ぬきさって」ようやく自己自身=エモーションへと生成していくものなのだ。物語が物語をおいぬき、「きしみ」、それをして物語と「成る」。それこそがいちど自己を消し、ふたたび自己にかえってくるレーサーの瞬間の美学にして、映画じたいのそなえたプロセスでもあるのだった。だからこそマイルズは走りつづけた。それによって「顔」たることをみずから拒絶しつづけ、あるいはそれをついには「盗まれて」も、その「消えた顔」こそが真に「顔」たる強度をもっていたことを、ほかならぬその目撃者だったシェルビーや妻モリー、あるいはイノセントな憧憬をたやさなかった息子ピーターのまなざしが、そしてそれらとよく似た観客のまなざしが傍証していたはずだ。映画の終わりにマイルズが画面から「消え」、その意味の「にがさ」をほかならぬシェルビーの「顔」が「反照」しているのをみたとき、これがたんなる「闘い」ではなく、ほんらい相克しあうものを相互作用によって「再帰」させ、あくまで救済しようとするこころみですらあったことに気づき、いまいちど落涙してしまった。

三宅唱『ワイルドツアー』+『きみの鳥はうたえる』

三宅唱スペシャルナイト」ということで、先日シアターキノでもよおされた三宅唱監督『ワイルドツアー』と『きみの鳥はうたえる』の二本立てを観てきた。映画体験が凝縮された至福の三時間半。前者の上映後におこなわれた監督トークでは、短時間ながら撮影時のエピソードなど興味深い話を多々聞くことができ、人となりの朗らかさとともにその思慮深さを作品そのものと照合しつつ実感することができた。撮影時期のちかかった近作二作を連続で観ることで共通点もいくらかみつかった。撮影のうつくしさ、それとわからないほどこまやかな演出により活き活きとあらわされた被写体の「ナマの」感じなどはもちろんのこと、たとえば物語構造としては、どちらも「女ひとり・男ふたり」の「三人関係」をえがいていることなど明瞭だろう。むろん相違もある。たとえば透徹した撮影と演出で世界の水平的なつながり=拡がりをとらえていく点は両者に共通だとしても、『ワイルドツアー』が「開放系」なら、『きみの鳥はうたえる』はさしずめ「閉鎖系」という感じがあった。いずれにしても、煮え切らなさやあいまいさ、そうした緩衝地帯としての「中間性」にとどまろうとする監督の視点については一貫した信念があることはまちがいない。(以下、ネタバレあり)

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